マチュ・ピチュの歴史保護区
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文字の記録がないため、この都市の建設目的は諸説あるが、現在では、第9代皇帝パチャクテクの時代に離宮や宗教施設として建設されたと考えられている[10]。かつては人口1万人規模とするものもあったが、現在では否定されており[11]、ペルー文化庁の専門家たちには、常住人口500人と見積もっている者たちもいる[12]都市遺跡の地図(左側が北)

都市遺跡は北部(北西部)には様々な建造物群が並び、南部(南東部)にはアンデネスとよばれる段々畑が築かれている[13][14]。北東部には職人や貴族の居住地区があり[13]、ほかの代表的な建築物としては、以下のものを挙げることができる。

インティワタナ - 「太陽をつなぎとめる場所」という意味を持つ[15][16]。マチュ・ピチュの都市遺跡で最も高い場所に置かれた花崗岩(高さ1.8m)で、四隅と四方が対応するように据えられている[15]。インティワタナはインカ帝国の大都市に見られた太陽の観測にかかわる石である[15]

主神殿 - 「3つの窓の神殿」に隣接し、広場に面している。壁には多くの壁龕が作られている[17]

3つの窓の神殿 - その名のとおり、三方を囲む壁のうち、東側の壁には台形の窓(開口部)が3つ並んでいる。命名者はビンガムで、彼はその窓は初代皇帝マンコ・カパックの伝説に関連する窓ではないかと推測し、そう呼んだ[18][19](ただし、この推測は現在では否定されている[17])。

大塔 - 「太陽の神殿」とも呼ばれ、その異名が示すように、クスコにあった「太陽の神殿」との類似性が指摘されている[15][20]。窓や塔内の岩の配置が冬至の日差しに対応しているらしいことから、暦に関する建造物であったと考えられている[15]。大塔の下にはミイラを安置する陵墓として機能したらしい洞窟があるが[15]、ビンガムが推測したような王家の墓だったのかの確証はない[18]

王女の宮殿 - 大塔の隣にある外階段を持つ2階建ての構造物で、インカ建築としては珍しくない様式だが、マチュ・ピチュではほかに見られない[21]

コンドルの神殿 - コンドルをかたどった大きな平石がある神殿で、翼をかたどったとされる背後の2つの巨石部分の構造物には、牢獄として機能したとされる半地下の空間がある[22][23]


インティワタナ

大塔(太陽の神殿)

コンドルの神殿の平石

マチュ・ピチュの精密な石積み

水汲み場
都市遺跡の斜面

南東部の比較的日照が期待できる区画には、アンデネスという石壁で区切られた段々畑が広がる。耕作用の土はウルバンバ渓谷から運び込まれたと考えられており[13]、土だけでなく、肥料として海岸地域のグアノが持ち込まれていた[18][15]。耕作されていたのはトウモロコシジャガイモコカなどとされる[24][15]。畑の土の中からはキヌアアボカド、豆類の花粉も見つかっている[25]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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