マジック・ジョンソン
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両親は共に南部出身の黒人だったが、自動車関係の仕事を求めてミシガン州に移り住んできた。父親はゼネラルモーターズの傘下の会社で働くほか、副業もこなしていた。母親も学校の用務員など常に何かの仕事に就いていた。少年時代からまずは父親を相手にバスケットボールを始め、少年チームに参加し、バスケットボール漬けの日々を過ごした。

中学時代からすでに仲間内で一番の長身で、運動能力も抜群だった。一試合で48点をあげたこともあったという。その頃からミシガン州でも有名な黒人がほとんどを占めるセクストン高校への進学を夢見はじめる。バスケットの強豪校として知られる高校でプレーし、スターとなることが彼の当時の一番の夢だった。

ところが、ジョンソンが高校に進学する数年前、ミシガン州では「強制バス通学制度」ができた。人種の融合を図るため、白人がほとんどを占める高校に一定数の黒人を編入するというもので、ジョンソンの家は境界線のすぐ外に位置していた。そのため名門セクストン高校に友人達と一緒に通えないばかりか遠距離の白人ばかりの高校・エベレット高校に強制的に通わされる羽目になった。エベレット高校では不自然な少数の黒人学生の編入によってトラブルが絶えず、現にジョンソンの兄はコーチと口論になったことがもとでバスケット部を辞めてしまっている。しかし、彼は粘り強く周囲と交渉する術を学び、また誰よりも熱心に練習し、プレーして勝利をもたらすことで周囲に自分を認めさせることに成功する。ジョンソンが4年生の時、同校のチームは27勝1敗の成績をあげ、ミシガン州を制した。今に残るニックネーム「マジック」は、1年生の時のジョンソンがある試合で36得点・18リバウンド・16アシストを記録するのを見た地元の新聞記者が名付けた。まもなくこのニックネームはミシガン州全域で有名になる。また、このころからチームで最長身の選手でありながらセンターやフォワードではなく、ガードのポジションがジョンソンに適していることを高校のコーチが最初に見抜き、ポイント・ガードとしてプレーすることが多くなった。

高校の卒業を控え、全米中の大学から勧誘が殺到する。ジョンソンは州で一番のバスケットの強豪であるミシガン大学と、高校の時からよく出入りし練習にも参加させてもらっていたミシガン州立大学のどちらに進学するか、あるいは全米の他の有名大学に進学するかを相当悩んでいた。学校の恩師やバスケット関係者の多くがミシガン州立大学の出身で、本人も本当は地元のミシガン州立大学に行きたかったが、新たに同大学のコーチとなったジャッド・ヒースコートは試合中に選手を怒鳴りつけることが多く、ジョンソンはあまりいい印象を持っていなかった。しかし、彼の家を訪問したヒースコートは、「他の大学に進めば君はセンターとして起用されるだろう。しかし、私は君をポイント・ガードとして起用するつもりだ」とジョンソンの天分を見抜いた。またよく怒鳴るのも彼の情熱の現れだと知り、これが決め手となってジョンソンはミシガン州立大学への進学を決める。

大学でのジョンソンは、1年生の時にはそれまであまり強豪とは言えなかったミシガン州立大学のチーム(スパルタンズ)を率いて25勝5敗の成績を残し、NCAAファイナル・フォーにはあとわずかで届かなかったが前年とは比較にならない好成績を残す。2年生時にはスパルタンズは25勝5敗で地区制覇し、NCAAトーナメント決勝へと進出した。決勝へ勝ち上がってきたもう一つのチームは、それまで一度もNCAAトーナメントに出場もしたことのない無名校インディアナ州立大だった。同大学のチームはシーズンを33勝0敗で過ごしており、チームを率いていたのは後にマジックにとって最高のライバルとなるラリー・バードであった。両者の対決する決勝戦は大学バスケットボール決勝の歴史で最高の視聴率を記録した。前日の練習でコーチのヒースコートに「仮想・ラリー・バード」の役を演じるように命じられたジョンソンが見事なパフォーマンスを見せたことも功を奏し、ジョンソンのミシガン州立大学がバードを抑えることに成功し、75-64で勝利。ジョンソンとミシガン州立大学は初のNCAAチャンピオンとなった。しかし、この時始まったジョンソンとバードのライバル関係はプロ入り以降にも続くことになる。また、大学時代の同級生で、後に妻となる女性ともこの頃出会っている。しかし、ジョンソンはバスケットで勝利することが一番の望みで、家庭生活がその妨げになることを恐れ、その後10年以上付き合ったり、別れたり、婚約しては解消するなどの関係となり、結婚したのは1991年である。
ロサンゼルス・レイカーズ時代
キャリア初期

NCAAトーナメントで優勝を成し遂げた後、1979年にミシガン州立大学を2年生で中退し、NBA入りすることを表明する。前年のNBA最低成績だったシカゴ・ブルズユタ・ジャズドラフトの一位指名権をかけてコイントスを行うことになったが、ジャズの指名権はロサンゼルス・レイカーズにトレードされており、コイントスに勝ったレイカーズが全体1位でマジック・ジョンソンを指名した。実はジョンソンの指名はそれまでのNBAで前例のない長身ポイント・ガードであること、当時のジョンソンはアウトサイド・シュートがやや苦手だったことなどからレイカーズ首脳陣からは反対が多かった。このときレイカーズの新オーナーとなったジェリー・バスがマジック・ジョンソンを指名しないとチームを買い取るのを止めると言い切り、決断を下した。当時のNBA新人としては最高金額だった年俸50万ドルで契約が成立したが、その1ヶ月後、前年のドラフトでボストン・セルティックスから契約条項の盲点を突く形で6位で指名されていたラリー・バードが60万ドルの契約を結んだため、新人最高額の記録はすぐに塗り替えられてしまった。

レイカーズでは少年時代からあこがれていたプレーヤーであるカリーム・アブドゥル=ジャバーやノーム・ニクソン、ジャマール・ウィルクスといった名選手たちと共に先発ガードとしてプレーすることになった。NBA最初の試合で勝利を決めるシュートを決めたアブドゥル=ジャバーにジョンソンは興奮して抱きつくなど情熱的なプレーでチームを牽引。前年より13勝も勝ち星を増やし(60勝22敗)、1年目からNBAオールスターゲームにも選ばれ、先発出場するなど人気も抜群で、18得点、7.7リバウンド、7.3アシストという好成績でシーズンを終えるなど評価が高かったが、新人王レースではラリー・バードに敗れた。

ルーキーシーズンを終えてのプレーオフ、フェニックス・サンズシアトル・スーパーソニックスを退け、ジュリアス・アービング率いるフィラデルフィア・セブンティシクサーズと対戦したNBAファイナルで、レイカーズが3勝2敗と優勝に王手をかけていた時、それまで絶好調だったチームの大黒柱、アブドゥル=ジャバーが第5戦で足首を捻挫してしまう。アブドゥル=ジャバーが欠場した第6戦にポール・ウェストヘッド監督がジョンソンをアブドゥル=ジャバーに代えてセンターとして起用するという奇策を用いたところ、42得点、15リバウンド、7アシストという大活躍によりレイカーズが優勝した。当時まだ20歳のルーキーだったジョンソンは、こうしてファイナルMVPを受賞した史上唯一のルーキーとなった。

2シーズン目のジョンソンは、試合中の接触で膝に怪我を負い、37試合の出場にとどまった。プレーオフの1回戦には怪我をおして出場したものの、プレーは散々な出来となり、レイカーズは1勝2敗で敗退した。

翌1981-82シーズンのレイカーズは57勝25敗でウェスタンカンファレンスで1位となった。ファイナルではセブンティシクサーズを4勝2敗で下して優勝した。ジョンソンは再びMVPに選ばれたが、ジョンソンにとっては辛い1年となった。

当時のレイカーズの監督、ポール・ウェストヘッドはそれまでは選手達に比較的自由にプレーさせていたが、この頃より速攻よりも緻密なハーフコートオフェンスを重視するという自分の持論をチームに強制するようになる。チームの攻撃が勢いのないものになり成績も低迷するなか、得意の速攻をリードすることを封じられ、それを不満に思っていたジョンソンはシーズン序盤に「自分をトレードしてほしい」とマスコミに向かって発言した。その翌日、ウェストヘッドは解雇された。この異動は予定されていたものだと発表されたが、ファンやマスコミはジョンソンを「コーチ・キラー」と痛烈に非難した。このシーズン、ジョンソンは選手生活で唯一オールスターの先発に選ばれなかった。

ウェストヘッドの後任には、アシスタントコーチだったパット・ライリーが昇格し、チームは次第に以前の走るスタイルを取り戻していった。ライリーは選手達にチャンピオンとしての自覚を促し、厳しい練習を課すことで非難が集中していたレイカーズとジョンソンを再び優勝させることに成功する。

そして翌1982-83シーズンにはやはりトレードでレイカーズが得た1位指名権でジェームズ・ウォージーがチームに入団。この時代に一世を風靡する「ショータイム」と呼ばれたオフェンスの中核となるメンバーが集まっていた。

ただし、このシーズンのファイナルでは主力を怪我で欠き、レイカーズはセブンティシクサーズに優勝を譲ることになった。
キャリア中期

レイカーズのオフェンスはジョンソンのパスの技術に負うところが大きかった。前シーズンにチーム入りしたウォージーは俊敏な選手で、ジョンソンのアシストからウォージーがダンクシュートで締めるレイカーズの速攻は人気を集めた。この「ショータイム」と呼ばれたオフェンスはこの時代のレイカーズの象徴となった。また、敵の選手を自分に引きつけておき、顔の向きの反対側や背面にいきなりパスを出す「ノールック・パス」もジョンソンの十八番だった。ライリー監督の指導のもと、レイカーズはリーグ屈指の強豪となった。

一方、東海岸ではボストン・セルティックスが強豪としての地位を確立していた。ジョンソンはセルティックスのエースだったラリー・バードとしばしば比較され、二人はライバルとしてとらえられていた。

1983-84シーズン、マジックは46試合連続2桁アシストというNBA記録を達成した。レイカーズは54勝28敗でリーグ第2位の成績。1位は62勝20敗のセルティックスで、バードはMVPに選ばれていた。両チームはプレーオフを勝ち上がり、ファイナルで対戦することになった。二人は大学時代にも優勝を競っていた因縁のライバルということもあり、ファイナルは全国的な注目を集めた。

NBAファイナルの第1戦は、予想に反してアブドゥル=ジャバーの大活躍もあり、レイカーズがアウェイとなるボストン・ガーデンで勝利。続く第2戦、レイカーズがリードし、試合の終了間際となったが、ウォージーが投げたパスをセルティックスのジェラルド・ヘンダーソンがスティールし、同点とされる。延長時間の残り数秒でジョンソンは残り時間の計算を間違え、そのままセルティックスの勝利となった。本拠地ロサンゼルスに戻ってきた第3戦ではジョンソンが21アシストとNBAファイナル記録となる活躍でチームをリードし大勝した。

セルティックスのケビン・マクヘイルがレイカーズのカート・ランビスを床に叩き付けて乱闘寸前となるなど荒れた試合となった第4戦、残り時間1分を切ったところでジョンソンはボールを失い、最後の局面でフリースローを2本ミス。延長になった試合をレイカーズが落とし、シリーズは2勝2敗のタイとされてしまう。


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