マザー・グース
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初期の訳業で最も重要な人物は北原白秋で、大正時代に『まざあ・ぐうす』を出版している[80][注 10]。白秋による訳は、まず児童雑誌『赤い鳥』の1920年(大正9年)1月号(同年1月刊行)に「柱時計」(原題:Hickory Dickory Dock、日本語別名:ヒッコリー・ディッコリー・ドック)と「緑のお家」(読み:みどりのおうち[80]、原題:There Was a Little Green House)が掲載され、続けて同誌にマザーグースの様々な童謡が発表されていった[81]。そして、明くる1921年(大正10年)の末(白秋36歳時)に纏められ、日本初のマザーグース訳詩集『まざあ・ぐうす』としてアルス社から刊行された[76]。挿絵は恩地孝四郎が担当。この訳詩集では132篇を収録しており、『赤い鳥』に掲載されたものより滑らかな口語に直されている[82]。上述の「柱時計」と「緑のお家」はそれぞれ「一時」と「くるみ」に改題したうえで掲載されている[80]

その後は英文学者で詩人の竹友藻風による『英国童謡集』が1929年昭和4年)に出ている。これは学習者向けの対訳詩集で、87篇の訳を原詩とともに収めたものであるが、とりたてて反響はなかったものと見られる[83]
谷川発のブーム

『まざあ・ぐうす』からほぼ半世紀が過ぎた1970年(昭和45年)、リチャード・スカーリーの著書を谷川俊太郎が翻訳した絵本『スカーリーおじさんのマザー・グース』[84]が中央公論社(現・中央公論新社)から出版された。谷川の翻訳は洗練された@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}口語による[信頼性要検証]ものであった[85]。同書は50篇のみの訳出であったが、谷川はその後、1975年(昭和50年)から翌1976年(昭和51年)にかけて、177篇の訳を収めた『マザー・グースのうた』全5集[86]草思社より出版している。絵は堀内誠一が担当した。読みやすい谷川訳による『マザー・グースのうた』の出版には大きな反響があり、これをきっかけに日本におけるマザーグース・ブームが巻き起こった[87]

「ハンプティ・ダンプティ」 / デンスロウ画。
拡がるファン層

ブームは他の分野の読者層をも取り込む形で拡がりを見せる。1972年(昭和47年)から1976年(昭和51年)まで連載された萩尾望都の少女漫画『ポーの一族』は、全編を通して随所にマザーグースの詩の一節を用いたことで知られている(cf. ポーの一族#作品中のマザーグース)。小学館『別冊少女コミック』の1973年(昭和48年)1月号から連載が始まった「メリーベルと銀のばら」でハンプティ・ダンプティを扱ったのが嚆矢になっている。また、マザーグースを引用した1939年の作品であるアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』がハヤカワ・ミステリ文庫(現・ハヤカワ文庫HM)の創刊第1弾として日本に紹介されたのは、1976年(昭和51年)4月のことであった。これら異なる分野ながらいずれも大いに人気を博した作品に重要な位置付けで取り上げられたことも、谷川俊太郎の訳業に始まるブームを後押ししたと見られている[87][88]


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