マザー・グース
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夢二はおそらく添えられているイラストから興味を持ち始めて自分で訳すようになったものと考えられ[76]1910年明治43年)11月刊行の画文集『さよなら』に収録した物語のなかに「誰がこまどりを殺したの?」の訳[注 7]と「ロンドンへ(現在の邦題:子猫ちゃん子猫ちゃん[74]」を入れて以降、さまざまなマザーグースを訳出している。ただし夢二は翻訳であるという断りをいれずに訳して自分の創作詩といっしょに扱ったりしており、翻訳というより翻案に近いようなものもある[69]。一例として1919年(大正8年)の自著である児童書『歌時計』[77][78][79]に所収の「蜘蛛」(96 - 97頁[注 8])は「マフェットちゃん」に対応しているが、男の子ジャック[注 9]が木の上から落ちてきた干葡萄(ほしぶどう)を食べようとしたところ蜘蛛だったという[78]、オリジナルとは異なる展開になっており、これは今でいう二次創作の範疇にある。日本初のマザーグース訳集を出した北原白秋
まざあ・ぐうす

初期の訳業で最も重要な人物は北原白秋で、大正時代に『まざあ・ぐうす』を出版している[80][注 10]。白秋による訳は、まず児童雑誌『赤い鳥』の1920年(大正9年)1月号(同年1月刊行)に「柱時計」(原題:Hickory Dickory Dock、日本語別名:ヒッコリー・ディッコリー・ドック)と「緑のお家」(読み:みどりのおうち[80]、原題:There Was a Little Green House)が掲載され、続けて同誌にマザーグースの様々な童謡が発表されていった[81]。そして、明くる1921年(大正10年)の末(白秋36歳時)に纏められ、日本初のマザーグース訳詩集『まざあ・ぐうす』としてアルス社から刊行された[76]。挿絵は恩地孝四郎が担当。この訳詩集では132篇を収録しており、『赤い鳥』に掲載されたものより滑らかな口語に直されている[82]。上述の「柱時計」と「緑のお家」はそれぞれ「一時」と「くるみ」に改題したうえで掲載されている[80]

その後は英文学者で詩人の竹友藻風による『英国童謡集』が1929年昭和4年)に出ている。これは学習者向けの対訳詩集で、87篇の訳を原詩とともに収めたものであるが、とりたてて反響はなかったものと見られる[83]
谷川発のブーム

『まざあ・ぐうす』からほぼ半世紀が過ぎた1970年(昭和45年)、リチャード・スカーリーの著書を谷川俊太郎が翻訳した絵本『スカーリーおじさんのマザー・グース』[84]が中央公論社(現・中央公論新社)から出版された。谷川の翻訳は洗練された@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}口語による[信頼性要検証]ものであった[85]。同書は50篇のみの訳出であったが、谷川はその後、1975年(昭和50年)から翌1976年(昭和51年)にかけて、177篇の訳を収めた『マザー・グースのうた』全5集[86]草思社より出版している。


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