マザーリシャリーフ
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マザーリシャリーフのターリバーンの敗北により、アフガニスタン北部の他地域や西部への道が開けた。

2001年11月のマザーリシャリーフの戦いの後、表向きには北部同盟が街を占領したが(マザーリシャリーフ奪還(英語版)、11月9日 - 11月10日)、実際にはアメリカ軍の特殊部隊が合流し、アメリカ空軍が支援した。報道によると、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}北部同盟は投降したターリバーンの兵士3000人をカライジャンギで皆殺しにした[要検証ノート](12月、ダシュテ・ライリ虐殺(英語版))と言う。アメリカの地上部隊も虐殺の現場に居合わせたようである[8]。アイルランドのドキュメンタリー映画「アフガン大虐殺 - 死の護送」がこれらの申し立てを調査した。プロデューサーのドーランは国連の調査官達が数千人の被害者の集団墓地を見つけたと主張している[9]。報道によると、ブッシュ政権はこの事件の調査を妨害したと言う[10]。2002年を通じて、指揮官が異なる民兵同士の小規模な衝突が続いたので、国際連合の集中的な和平調停と小規模な武装解除プログラムに焦点が移った。2003年4月、街にアフガニスタン独立人権委員会の事務所が開設された。しかし北部のパシュトゥーン人の市民が、タジク人を中心とする他の民族グループに民族浄化されたと報道もあった[11]
NATO軍駐留とカルザイ政権詳細は「国際治安支援部隊」および「en:2011 Mazar-i-Sharif attack」を参照

2002年にハーミド・カルザイ大統領が選出された後、街は徐々にカルザイ政権の支配下に置かれた。アフガン陸軍第209軍団(シャヒーン)の基地はマザーリシャリーフにあり、アフガニスタン北部において軍事的な支援をしている。北部地域のアフガン国境警備隊の司令部もこの街に置かれている。これらの治安部隊が居るにも関わらず、ターリバーンの活動や部族長老の暗殺が報告されている。マザーリシャリーフの当局者によると、過去7年間でバルフ州の部族長老が20?30人暗殺されていると言う。背後に誰がいるのか確実な証拠は無いが、犠牲者の大部分はグルブッディーン・ヘクマティヤールのイスラム党(英語版)に関係していると言われている[12]

アフガン政府を支援するために、NATO主導の平和維持軍が街の中や周辺に展開している。ドイツが率いる国際治安支援部隊(ISAF)の北部方面軍は、マザーリシャリーフ国際空港に隣接するマーマル駐屯地に居る。2006年以来、マザーリシャリーフの地方復興チームの指揮官はスウェーデンから派遣されている。部隊はマーマル駐屯地の西10キロメートルにあるノーザンライト駐屯地に居る。マーマル駐屯地の中にはニダロス駐屯地があり、ラトビアノルウェーの兵士と、ノルウェイのISAF指揮官が居る。

2011年4月1日、国連アフガニスタン支援ミッションの10人の職員が、怒り狂ったデモ隊によって殺害された。デモはテリー・ジョーンズ牧師とウェイン・サップ牧師が3月21日にフロリダ州で催した国際クルアーン焼却日に対して組織された物だった[13]。5人のネパール人と、ノルウェー人、ルーマニア人、スウェーデン人が殺害され、2人は斬首されたと言う[14][15][16]。イスラム教の聖書を燃やしたアメリカ人牧師のテリー・ジョーンズは責任を否定した[17]バラク・オバマ大統領は、コーラン焼却を「極度の不寛容と偏見」的な行為として非難すると共に、デモ隊の「無法な攻撃」を「人類の品位と尊厳を侮辱した」「罪の無い人々を虐殺し首を切ることを許す宗教は無いし、不名誉で嘆かわしい行動に正義は無い」と非難した[18]。上院院内総務のハリー・リードなどの合衆国の議員たちも、焼却と暴動を非難した[19]

暴動は2011年7月までに最高潮に達した[20]。7月下旬、爆弾攻撃により死者が出た数日後、治安に対する不安が増大する中で、NATO軍はマザーリシャリーフの管理を地元の軍隊に譲った。マザーリシャリーフの7分の6の地域はアフガンの支配下に移ったが、移行時期が政治的でターリバーン兵士と戦うアフガン軍の能力も疑問だという批判があった。
国際治安部隊の撤退とターリバーンによる制圧

2013年6月、国際治安支援部隊は治安維持任務を完了した。北部地方に展開するドイツ軍も撤退作業を進めており、2014年末までにマザーリシャリーフから撤退する予定である[21]

2021年、アメリカ軍が完全撤退に向けてアフガニスタン国内の兵力を削減すると、ターリバーンはマザーリシャリーフ周辺でも軍事行動を強め始めた(2021年ターリバーン攻勢 参照)。同年8月11日には、ガニー大統領が空路で現地を訪問して窮地に立つ政府軍を激励し、軍閥指導者と会談した[22]。8月14日ターリバーンは防衛線を突破してから僅か一時間で市を制圧、軍閥指導者らは国外へ逃亡した[23][24][25]


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