マザーテレサ
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母のドラナ(Drana)はアルバニア人であったが、父のニコ(Nikolle)はルーマニア人と同系の少数民族・アルーマニア人であった[4]

父は地元の名士であり手広く事業を営む実業家で、アルバニア独立運動の闘士でもあったが、1919年に45歳で急死した(政敵による毒殺説もある)。彼女は3人きょうだいの末っ子で、6歳年上の姉と3歳年上の兄がいた。姉や兄からは「ゴンジャ」(アルバニア語で「つぼみ」「小さな花」の意)と呼ばれていた。両親はマケドニア地方に住むカトリック教徒であったが、アルバニア人にはイスラム教徒が多く、マケドニア地方には正教徒が多かったことを考えると珍しい家族であった。一家は裕福であったが父母は信仰心に篤く、貧しい人への施しを積極的に行っていた。

アグネスの幼少時代についての記録はほとんどないが、小さいころから聡明な子で、12歳のときには、将来インドで修道女として働きたいという望みを持っていたといわれる。
カルカッタの修道女

18歳のとき、聖座の許可を得たアグネスは故郷のスコピエを離れ、アイルランドでロレト修道女会に入った。ロレト修道女会は女子教育に力を入れている修道会であった。アグネスはダブリンで基礎教育を受けると修練女として1931年にインドのダージリンに赴いた。初誓願のときに選んだ修道名がテレサであった。この名前はリジューのテレーズから取られている。1937年終生誓願を宣立し、以後シスター・テレサとよばれることになった。

1929年から1947年までテレサはカルカッタ(現在のコルカタ)の聖マリア学院で、地理歴史を教えていた。彼女は子どものころから地理が好きで、また、ユーモラスな彼女の授業は学院の女学生たちの間で大変人気があったという[5]1944年には校長に任命されている。上流階級の子女の教育にあたりながら、テレサの目にはいつもカルカッタの貧しい人々の姿が映っていた。彼女自身の言葉によると1946年の9月、年に一度の黙想を行うため、ダージリンに向かう汽車に乗っていた際に「すべてを捨て、もっとも貧しい人の間で働くように」という啓示を受けたという。彼女は修道院を離れて活動を行う許可を求めたが、バチカンの修道会管轄庁などカトリック教会の上層部は慎重に評価を行おうとし、すぐには彼女の活動に対する認可を与えなかった。それでもテレサは自分の信じる道を進もうと決意していた。

1948年、ようやく教皇ピウス12世からの修道院外居住の特別許可が得られた。テレサは修道院を出て、カルカッタのスラム街の中へ入っていった。彼女はインド女性の着る質素なサリーを身にまとい、手始めに学校に行けないホームレスの子供たちを集めて街頭での無料授業を行うようになった。やがて彼女のもとに聖マリア学院時代の教え子たちがボランティアとして集まり始め、教会や地域の名士たちからの寄付が寄せられるようになる。
神の愛の宣教者会の創立

神の愛の宣教者会」は、1950年10月7日に教皇庁(ローマ教皇庁)によって認可を受け創立され、1965年2月1日には教皇庁立の修道会の認可を受ける[6]。テレサによれば、同会の目的は「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことであった。テレサは修道会のリーダーとして「マザー」と呼ばれるようになる[7]

インド政府の協力でヒンズー教の廃寺院を譲り受けたテレサは「死を待つ人々の家」というホスピスを開設した。以降、ホスピスや児童養護施設を開設していく。

活動の初期のころは、地元住民たちはホスピスに所属している者をキリスト教に改宗させようとしているという疑念を抱いていた。しかし、彼女たちはケアする相手の宗教を尊重する姿勢を貫き、亡くなった者に対してはその者の宗教で看取っていた(ヒンズー教徒にはガンジス川の水を口に含ませてやり、イスラム教徒にはクルアーンを読んで聞かせた)[8]

ケアする相手の状態や宗派を問わないテレサたちの活動は世界から関心を持たれ、多くの援助が集まった。1960年代までに「神の愛の宣教者会」の活動はインド全土に及ぶようになった。さらに1965年以降、教皇パウロ6世の許可によってインド国外での活動が可能になった。インド以外で初めて宣教女が派遣されたのは南米ベネズエラのココロテ市であった。以後、修道会は全世界規模で貧しい人々のために活躍するようになった。

テレサの活動はカトリック教会全体に刺激を与え、男子修道会「神の愛の宣教者修道士会」(1963年)、「神の愛の宣教者信徒会」などが次々に設立されていった。1969年マルコム・マッグリッジによるBBCのTVドキュメンタリー映画『すばらしいことを神様のために(Something Beautiful for God)(英語版)』および同名の書籍によって、テレサの活動はイギリスのみならず全世界で知られるようになった。この作品の取材をする中でマッグリッジはテレサの姿に強い感銘を受け、のちにカトリック教徒になっている。

1971年、教皇パウロ6世は、自らが制定した勲章ヨハネ23世教皇平和賞」の最初の受章者としてテレサを選んだ。これを皮切りに多くの賞がテレサに与えられることになる。ケネディ賞(1971年)、アルベルト・シュバイツアー賞(1975年)、アメリカ合衆国大統領自由勲章1985年)、アメリカ合衆国名誉市民1996年)、議会名誉黄金勲章1997年)、これらに加えて数多くの大学名誉学位を受けた。アメリカ合衆国名誉市民としては5人目(存命中はチャーチルに次いで2人目)、またアメリカやその同盟国の政治家・軍人以外としては初めての授与である。こういった賞の中でもっとも有名なものは、もちろん1979年に受けたノーベル平和賞であろう。テレサは授賞式の際にも特別な正装はせず、普段と同じく白い木綿のサリーと革製のサンダルという粗末な身なりで出席した。賞金19万2,000ドルはすべてカルカッタの貧しい人々のために使われることになった上、授賞式の場においては「私のための晩餐会は不要です。その費用はどうか貧しい人々のためにお使い下さい」とも要望した[9]。賞金を受け取ったとき「このお金でいくつのパンが買えますか」と言ったという。インタビューの中で「世界平和のために私たちはどんなことをしたらいいですか」と尋ねられたテレサの答えはシンプルなものであった。「家に帰って家族を愛してあげてください」。

1982年にはテレサはイスラエルパレスチナの高官にかけあって武力衝突を一時休止させ、戦火の中で身動きがとれなくなっていたベイルートの病院の患者たちを救出している[10]
晩年と死

1983年、高齢のテレサは当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世との会見のために訪れたローマ心臓発作に見舞われた。1989年にはペースメーカーをつけた。1990年、テレサは健康状態を理由に総長の辞任を申し出たが、会員たちの強い希望により再び総長に選出される[11]1991年、優れない健康状態を押して故郷アルバニアに最初の支部を設立している。これはテレサの念願であった。

1993年5月、テレサは転倒して首の骨にひびが入り、8月にはマラリアに罹患した。9月にはカルカッタで心臓病の手術を受けた[11]。1997年3月、体力の限界を感じ総長職を辞任。1997年9月5日、世界が見守る中、テレサはカルカッタのマザー・ハウスにて逝去[12]。満87歳没。

テレサが亡くなった1997年には「神の愛の宣教者会」のメンバーは4,000人を数え、123か国・610か所で活動を行っていた[13]


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