マザーテレサ
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しかし、彼女たちはケアする相手の宗教を尊重する姿勢を貫き、亡くなった者に対してはその者の宗教で看取っていた(ヒンズー教徒にはガンジス川の水を口に含ませてやり、イスラム教徒にはクルアーンを読んで聞かせた)[8]

ケアする相手の状態や宗派を問わないテレサたちの活動は世界から関心を持たれ、多くの援助が集まった。1960年代までに「神の愛の宣教者会」の活動はインド全土に及ぶようになった。さらに1965年以降、教皇パウロ6世の許可によってインド国外での活動が可能になった。インド以外で初めて宣教女が派遣されたのは南米ベネズエラのココロテ市であった。以後、修道会は全世界規模で貧しい人々のために活躍するようになった。

テレサの活動はカトリック教会全体に刺激を与え、男子修道会「神の愛の宣教者修道士会」(1963年)、「神の愛の宣教者信徒会」などが次々に設立されていった。1969年マルコム・マッグリッジによるBBCのTVドキュメンタリー映画『すばらしいことを神様のために(Something Beautiful for God)(英語版)』および同名の書籍によって、テレサの活動はイギリスのみならず全世界で知られるようになった。この作品の取材をする中でマッグリッジはテレサの姿に強い感銘を受け、のちにカトリック教徒になっている。

1971年、教皇パウロ6世は、自らが制定した勲章ヨハネ23世教皇平和賞」の最初の受章者としてテレサを選んだ。これを皮切りに多くの賞がテレサに与えられることになる。ケネディ賞(1971年)、アルベルト・シュバイツアー賞(1975年)、アメリカ合衆国大統領自由勲章1985年)、アメリカ合衆国名誉市民1996年)、議会名誉黄金勲章1997年)、これらに加えて数多くの大学名誉学位を受けた。アメリカ合衆国名誉市民としては5人目(存命中はチャーチルに次いで2人目)、またアメリカやその同盟国の政治家・軍人以外としては初めての授与である。こういった賞の中でもっとも有名なものは、もちろん1979年に受けたノーベル平和賞であろう。テレサは授賞式の際にも特別な正装はせず、普段と同じく白い木綿のサリーと革製のサンダルという粗末な身なりで出席した。賞金19万2,000ドルはすべてカルカッタの貧しい人々のために使われることになった上、授賞式の場においては「私のための晩餐会は不要です。その費用はどうか貧しい人々のためにお使い下さい」とも要望した[9]。賞金を受け取ったとき「このお金でいくつのパンが買えますか」と言ったという。インタビューの中で「世界平和のために私たちはどんなことをしたらいいですか」と尋ねられたテレサの答えはシンプルなものであった。「家に帰って家族を愛してあげてください」。

1982年にはテレサはイスラエルパレスチナの高官にかけあって武力衝突を一時休止させ、戦火の中で身動きがとれなくなっていたベイルートの病院の患者たちを救出している[10]
晩年と死

1983年、高齢のテレサは当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世との会見のために訪れたローマ心臓発作に見舞われた。1989年にはペースメーカーをつけた。1990年、テレサは健康状態を理由に総長の辞任を申し出たが、会員たちの強い希望により再び総長に選出される[11]1991年、優れない健康状態を押して故郷アルバニアに最初の支部を設立している。これはテレサの念願であった。

1993年5月、テレサは転倒して首の骨にひびが入り、8月にはマラリアに罹患した。9月にはカルカッタで心臓病の手術を受けた[11]。1997年3月、体力の限界を感じ総長職を辞任。1997年9月5日、世界が見守る中、テレサはカルカッタのマザー・ハウスにて逝去[12]。満87歳没。

テレサが亡くなった1997年には「神の愛の宣教者会」のメンバーは4,000人を数え、123か国・610か所で活動を行っていた[13]。活動内容はホスピスHIV患者のための家、ハンセン病者のための施設(平和の村)、炊き出し施設、児童養護施設、学校などである[14]

宗派を問わずにすべての貧しい人のために働いたテレサの葬儀は、1997年9月13日にインド政府によって国葬として荘厳に行われた[15][13]。その葬儀には各宗教の代表者が参列し、宗教の枠を超えて尊敬されたことを象徴するものとなった。マザーの棺は陸軍兵によって砲車に乗せられ、国葬会場まで行進した。独立の父マハトマ・ガンジー、初代ネール首相につづき、マザー・テレサは3人目であった[11]。遺体はテレサの遺言どおり「神の愛の宣教者会」本部に葬られた[16]。彼女の死は国家的な損失であるとインドの人々は嘆き、世界の人々も彼女の偉大な働きを思って追悼した。インドの政治指導者や首相以外で国葬されたのは彼女と2011年4月に死去したサティヤ・サイ・ババ[17]のみである。
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出典検索?: "マザー・テレサ" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2019年6月)

1997年、テレサの死後すみやかに列福列聖調査がはじめられた。通常は死後5年を経ないと始めることはできない規定だが、テレサの場合は生前から聖女の誉れが高かったことと、彼女の業績を極めて高く評価していたヨハネ・パウロ2世が前倒しを強く求めたため、例外的に5年を待たずに始められたのである(この例外は、2005年4月に逝去した当時の教皇ヨハネ・パウロ2世自身にも適用された)。

マザーの列福のために報告され、後日、奇跡として認められた事例に、非カトリックのインド人女性モニカ・ベスラの治癒がある。1998年、モニカは34歳の時、腹部の腫瘍を患い病んでいた。すぐに手術しなくてはならない危険な状態であったが、ひどい貧血症も患っていたために手術は不可能であった。彼女はマザー・テレサの死去した翌年の9月6日に、神の愛の宣教者会が経営する「死に行く人のための家」の礼拝堂に赴いた。「礼拝堂に入ると、マザー・テレサの写真が目に入り、あたかも一条の光が私に向って飛び出してくるように感じました。シスターが私のためにお祈りをしてくれて、私は眠りにつきました。朝、目覚めると、腫瘍が消えていたのです。」とモニカは語っている[18]

その突然の完全な治癒は医師たちを驚かせ、その後にその医師たちは自分たちの診断が間違っていなかった事を示すためのあらゆる必要な証拠を提出した。治癒のあとで、腫瘍を検査するためにした小さな外科手術の跡さえも見つからなかった。立ち会った医師は「これは私の医師としての人生で出会ったもっともすばらしい経験の一つです」と言う。西ベンガル州シリグリのR.N .Bhattacharya医師は、腫瘍は7か月の胎児と同じ大きさだったと証言する。


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