マサチューセッツ湾植民地
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ニューイングランド自治領設立1686年
自治領解体1689年
マサチューセッツ湾直轄植民地設立1691年

通貨スターリング・ポンド
現在 アメリカ合衆国

マサチューセッツ湾植民地(マサチューセッツわんしょくみんち、: Massachusetts Bay Colony、植民地を作った主体である「マサチューセッツ湾会社」: Massachusetts Bay Companyと呼ばれることもある)は、17世紀北アメリカ東海岸にイギリスが創った植民地である。ニューイングランドに属し、今日のセイラムボストンを中心にしていた。その地域は現在アメリカ合衆国50州の一つマサチューセッツ州となっている。

この植民地は、ジョン・ウィンスロップを指導者とし、ピューリタンの中でもイギリス国教会から分離しない非分離派によって、聖書の教えを実践する共和国を創設することを目的に建設された[1]。1630年の建設から、最初の年に1000人以上、1643年までにはおよそ2万人が居住し、当時のバージニア植民地の人口の2.5倍にのぼった[1]

イギリス人によるこの入植は原住民インディアン民族と白人入植者の領土を巡る血生臭い北米植民地戦争の舞台となり、その後も続く「インディアン戦争」(民族浄化)の端緒となった。
初期の入植

マサチューセッツ湾植民は、地元のインディアン民族に無断で始められた。イングランド王や会社から様々な白人植民者集団が得た土地特許で、しかも一部は重複したものがありながら入植され、後に13植民地に領土が整理されたこともあって、初期に存在した植民者集団の幾つかはマサチューセッツ湾植民地の歴史に直接引き込まれていくようになった。

イギリスのプリマスにあったバージニア会社1607年のバージニア勅許の一部として北緯38度線から45度線までの土地を認められていた。現在のメイン州ケネベック川河口に創られた唯一の入植地ポファム植民地は1608年に放棄された。北緯41度線(ロングアイランド・サウンドの南)から南の土地は、姉妹会社であるロンドンのバージニア会社に与えられており、以前から共同でこの領土の領有権を主張していた。

1607年、「プリマス会社」の領土がニューイングランドのプリマス委員会の指導で再構成された。イングランド王ジェームズ1世は北緯40度線から48度線までの「全本土を海から海まで」勅許を認めた。これには、南は現在のニュージャージー州中央部から北はニューブランズウィック州ノバスコシア州までが含まれていた。

その後の1620年イングランド国教会からの分離を望んだ入植者の一団、現在ピルグリム・ファーザーズと呼ばれる者たちがメイフラワー号でイングランドから渡ってきて、プリマス委員会に所有される土地に独自にプリマス植民地を創った。ピルグリムは元々バージニアに行くつもりであったが、激しい嵐のためにプリマスで旅を諦めた。最初に定着した場所が現在のプリマス市となっている。

一方、聖公会の教区牧師のジョン・ホワイト(英語版)は1623年、植民地会社ドーチェスター・カンパニー・オブ・アドベンチャラーズ(英語版)を発起し、本人は渡米しなかったが、セイラムに入植者を送り込んだ。

メイフラワー盟約を作ったこととプリマス植民地を創ったことは、アメリカ合衆国の歴史で独創的な出来事と教えられている。しかし、ニューイングランド地域で人口でも経済力でも支配的になったのは、マサチューセッツ湾植民地であり、セイラムとボストン周辺の後継者であった。また、1691年から1692年にプリマス植民地とその他の近隣植民地を合併して、マサチューセッツ植民地が出来たとき、その名前の元になったのもマサチューセッツ湾植民地であった。

白人入植者たちは、周辺のインディアン部族から領土を奪うことで入植地を増やした。入植者たちを悩ませたのは、侵略者から土地や食料を奪われ、これに抵抗してくるインディアンと、家畜や農作物を狙う狼だった。
先行した会社

1623年のシェフィールド特許でケープ・アンがロバート・クッシュマン、エドワード・ウィンスローとその仲間に割り当てられた。1623年から1624年にかけての冬、ジョン・ホワイトと「ドーチェスター会社」がこの土地のステージポイント(現在のマサチューセッツ州グロスター)に入った。


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