マケドニア_(ギリシャ)
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マケドニア地方にはアリアクモン川アクシオス川(ヴァルダル川)、ネストス川(メスタ川)の谷が横切っており、これらの川はすべてエーゲ海に流れ込んでいる。マケドニア地方はアルバニアマケドニア共和国ブルガリア、そしてギリシャの地方であるイピロステッサリア、西トラキアに囲まれている。沿岸のタソス島(Θ?σο?、Thasos)およびサモトラキ島(Σαμοθρ?κη、Samothraki)もマケドニア地方に含まれる。これらの島々は東マケドニア・トラキアに含まれる[2]

地域の総人口は2,492,232人[1]であり、その中心となるのは最大都市であるテッサロニキである。テッサロニキの人口は363,987人[1]であり、その都市圏人口はおよそ100万人である。
中心

テッサロニキ、またはテッサロニカ、サロニカとも呼ばれる都市がマケドニア地方の中心都市となっており、ギリシャ全土でも2番目に大きい。テッサロニキは中央マケドニア地方の州都であり、またテッサロニキ県の県都ともなっている。その都市圏人口はおよそ100万人である。

テッサロニキの町は紀元前315年ごろカッサンドロスによって建設された。その場所は古代の町テルマ(Θ?ρμα、Therma)と周辺の6つの村の上かその付近であった。カッサンドロスはこの町に彼の妻でアレクサンドロス大王の妹であるテッサロニカ(Θεσσαλον?κη、Thessalonike)の名をつけた。彼女の名はその父親であるピリッポス2世によって与えられたもので、テッサリアの騎兵の助けによってフォキスに対して勝利(Nike)を収めたことを記念してつけられたものである。テッサロニキという名は「テッサリアの勝利」(Θεσσαλο? + Ν?κη)を意味している(テッサリアという名そのものは、「かつて海であった地」を意味するthesi alosに由来している)。

キリスト教使徒であるパウロは、2回目のヨーロッパ伝道旅行でこの地を訪れた(使徒行伝 16.11)。東ローマ帝国の時代には、町はギリシャ人からはσυμβασιλε?ουσα(symbasileousa)と呼ばれた。聖書を教会スラヴ語に翻訳し、スラヴ語圏諸国への布教を行った聖人キュリロスメトディオスは9世紀のテッサロニキ出身である。

テッサロニキは1430年から1912年までオスマン帝国の支配下に置かれた。テッサロニキは第一次バルカン戦争の最大の「戦利品」であり、1912年の10月26日にギリシャに編入された。この日付はテッサロニキの町にとって大変大きな意義を持つものであり、前述のテッサロニキ編入という歴史的な出来事に加えて、この日付はテッサロニキの守護聖人デメトリオス(?γιο? Δημ?τριο? τη? Θεσσαλον?κη?、en)の聖人の日である。

テッサロニキは栄えた活気のある町で、町の商港はギリシャにとって大きな戦略的重要性を持っている。テッサロニキは商業、工業、経済、文化の一大拠点であり、南東ヨーロッパの物流のハブとなっている。テッサロニキの町は多くの学生人口を抱え、また数多くの東ローマ帝国時代の建造物や、華やかなナイトライフでも知られている。
気候リトホロから見たオリンポス山(2917m)の眺め

マケドニア地方の気候は、その地域の特性に強く影響を与えている2種類に分けられる。そのうちの一方は高山性の気候で、他方は地中海性気候である。高山性の気候は主に西マケドニア地方の山間部に多く、地中海性の気候は中央マケドニア、および東マケドニア・トラキア地方に多い。ギリシャで公式に観測された最低気温は西マケドニア地方のプトレマイダ(Πτολεμα?δα、Ptolemaida 、en)で観測され、氷点下27.8度が記録された。
経済と交通

その起伏に富んだ地形にもかかわらず、マケドニア地方はギリシャで最も豊かな農地を持っている。多種多様な食糧(主食)や商品作物が育てられており、コムギオリーブ木綿タバコ果物ブドウワインやその他のアルコール飲料が生産されている。食品生産と織物製造は地域の産業の中心となっている。観光は主に海岸部、特にハルキディキ半島タソス島、ならびにオリンポス山の後背地域では重要な産業となっている。観光客の多くはギリシャ周辺の国々から来ている。

テッサロニキは主要な港町であり、産業の中心である。カヴァラにはマケドニアのもうひとつの重要な港がある。地域の空の拠点であるテッサロニキ・マケドニア国際空港の他にも、カヴァラ、カストリアコザニにも空港がある。エグナティア高速道路(en)はマケドニア全域を横断し、主要都市を接続している。
人口アトス山のスタヴロニキタ修道院テッサロニキのパナギア・ハルケオン聖堂。代表的なビザンティン建築詳細は「en:Demographic history of Macedonia」を参照

地域の住民の圧倒的多数は民族的にはギリシャ人であり、ギリシャ正教会の信者である。中世から20世紀にかけての、マケドニア地域の人口推移についてははっきりとはわかっていない。1904年の時点でのオスマン帝国による人口統計によると、204,317人のスラヴ系ブルガリア人がオスマン帝国のセラニク州(Selanik vilayet、テッサロニキ州)に居住していた。この時点ではまだスラヴ系のマケドニア人という民族意識は存在せず、彼らは自らをブルガリア人と規定していた。同じ調査によると、マナストゥル(Manast?r、ビトラ)ではギリシャ人が261,283人、ブルガリア人が178,412人であった。ヒュー・プールトン(Hugh Poulton)の著作「Who Are the Macedonians」では、ギリシャによる1913年のマケドニア地域編入以前の人口調査について、「人口調査の評価には疑問がある」[3]としている。この地方に居住していたその他の人口の多くはトルコ人であり、他にもユダヤ人ロマ(ジプシー)、アルバニア人アルーマニア人ヴラフ人)などがいた。

20世紀前半において、人口構成に大きな変化が起こり、ギリシャ領マケドニアの地域の人口の圧倒的多数はギリシャ人となった。1919年、ブルガリアとギリシャは第一次世界大戦の講和条約であるヌイイ条約に調印した。条約ではギリシャとブルガリアの間での住民交換が定められた。この条約によると、ブルガリアはギリシャ領内に住む全てのスラヴ系住民の母国であるとされた。多くのブルガリアに住むギリシャ人はギリシャ領マケドニアに移り住み、逆にギリシャ領内に住むスラヴ人の多くはブルガリアに移住したが、一定数はギリシャ領内にとどまり、自らの姓をギリシャ風に改め、自らをギリシャ人であると規定し直し、それによってブルガリアへの移住を免れた。1923年にはギリシャはトルコとの間でローザンヌ条約に調印し、60万人のギリシャ語を話す難民がアナトリア半島からギリシャ領マケドニアに流入した一方、トルコ人やその他のイスラム教徒(アルバニア人、ギリシャ人、ロマ、スラヴ人、ヴラフ人を含む)はトルコへ流出した。

オスマン帝国時代のマケドニア地方の都市はギリシャ語、スラヴ語、トルコ語と言語ごとに異なる名前を持っていた。オスマン帝位国崩壊後、ギリシャ領の都市は公式にギリシャ語の名称によって知られるようになった。これはブルガリアやユーゴスラビアの都市においても同様であり、それぞれオスマン帝国の崩壊後にそれぞれの国の言語によって知られるようになった。住民交換によって、多くの場所で新たに流入した住民によって改名が行われた。

第二次世界大戦による飢餓、処刑、虐殺、強制移住などによってマケドニア地域の人口は悪影響を受けた。ドイツと同盟を結んだブルガリアの軍によって地域のギリシャ系住民やユダヤ系住民は迫害を受け、ブルガリアは占領する東マケドニア・西トラキア地域にブルガリア人を入植させた。マケドニア地域における市民の死者数は40万人を超えると見られ、うち5万5千人はユダヤ人である。ギリシャ内戦においても激しい戦闘がこの地域で行われ、戦後の貧困も重なって、多くのマケドニア地域の田舎の住民が町や外国へ避難した。現在においても、マケドニアの多くの場所では人口が希薄である。

ギリシャ語は公的な場所や教育における唯一の公用語であり、最も多くの住民が使用する言語である。幾らかの小さな共同体においては、ギリシャ語のポントス方言、マケドニア方言、アルーマニア語、メグレノ・ルーマニア語(Megleno-Romanian)、アルバニア系のアルヴァニティカ語(Arvanitika)、アルメニア語、スラヴ語(ブルガリア語あるいはマケドニア語)、トルコ語ロシア語イディッシュ語ロマ語なども使用されている。


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