マグナ・カルタ(大憲章、だいけんしょう、ラテン語: Magna Carta / Magna Carta Libertatum、英語: Great Charter of the Liberties、直訳では「自由の大憲章」)は、イギリス(連合王国)の不成典憲法を構成する法律の一つであり、イングランド王国においてジョン王の時代に制定された憲章である。
イングランド国王の権限を制限したことで憲法史の草分けとなった。また世界に先駆け敵性資産の保護を成文化した[1]。成立から800年が経過した21世紀の現在でもイギリスの憲法の最も基本的な部分として有効である。 ブーヴィーヌの戦いでフランスに敗北したジョンは、戦後さらなる徴兵を必要とした。しかし、イングランド貴族たちは度重なる軍役に反発、徴兵に応じるどころか、ジョンに対しそれぞれ抱えていた財政負担や不満を救済するよう強く求めた。1215年6月19日、貴族たちの要求をまとめる形でサリー近郊のラニーミードにおいて制定された。これにより、イングランドにおいて法の支配が初めて確認されることになった。その後マグナ・カルタは、教皇インノケンティウス3世の勅令により無効とされたものの、その後復活し数度改正されている。1225年に改正されたヘンリー3世によるマグナ・カルタの一部は、現在のイギリスにおいても憲法を構成する法典の一つとして効力を有する。 マグナ・カルタの理念は、その後しばらくの間忘れ去られていたが、国王と議会が対立した17世紀に再度注目されるようになり、エドワード・コーク卿ほか英国の裁判官たちによって憲法原理としてまとめられた。また、清教徒革命やアメリカ独立戦争の根拠ともなった。2009年、マグナ・カルタはユネスコの『世界の記憶』に登録された。 1204年、ジョン王がフランス王フィリップ2世との戦いに敗れてフランス内の領地を失った。1214年、ジョン王が戦を再び仕掛けて再び敗戦した(ブーヴィーヌの戦い)。この戦いは教皇派と皇帝派の争いという側面をもっていたが、同年7月27日フランスの勝利に終わった。ジョン王のさらなる徴兵に対して貴族はいきり立った。帰国したカンタベリー大司教(John de Gray 1215年1月、ジョン王はロンドンで反抗勢力と対話する姿勢を見せつつ、教皇庁に仲裁を求めた。教会への臣従を示していたジョン王の求めに応じてインノケンティウス3世は、ジョン王の裁決に従うよう貴族達に言い渡した。 教皇からの通達は4月には届いていたが、既に貴族達は武装蜂起の準備を進めており、5月にノーサンプトンに集結し、王への臣従誓約を破棄した。 ジョン王は貴族の所領を没収する勅令を発したが、ロンドン市は貴族側に同調しこれを迎え入れたため、ジョン王はロンドンの西にあるウィンザー城に籠もった。貴族は「未知の憲章」よりも遥かに長大な「貴族条項(The Articles of the Barons)」を編んだ。 そこでは諸権利が封建的慣習にもとづく強制手段により担保されていたが、聖職者はこの点に反対であった。さらにそこへはロバート・フィッツウォルター(Robert Fitzwalter 経過報告を受けていたローマ教皇インノケンティウス3世が、6月下旬に貴族条項ないしマグナ・カルタの廃棄を命じた。イングランド国王は神と教会以外の約束に縛られるものではないとして、キリスト教の復権を図った。令状は9月下旬に王と貴族の双方へ届けられた。3か月の郵送期間には既得権が成立していた。マグナ・カルタはジョン王にロンドンを明け渡すことを定めていたが、3か月が過ぎてもロンドン市民は行政長官の支配を許さなかった。例の25人がロンドンに軍を保持していたのである。かたや25人の代表団はマグナ・カルタによって所領の自治を実現した。彼らは10州で自分たちの州長官を任命した。 教皇の支持を得たジョンが再び争うと、貴族らはフランスのルイ王太子(のちのルイ8世)に王位を提供しようとした。 1216年10月、ジョンが死ぬとルイ王太子がロンドンへ侵攻した(第一次バロン戦争)。マグナ・カルタはヘンリー3世の摂政ウィリアム・マーシャルの元で再確認され、バロン戦争を終結させた。そしてこのときやっと、御料林憲章(Charter of the Forest
概要
未知の憲章
貴族条項
バロン戦争へ
ヘンリー3世はその後マグナ・カルタを守らなかったため、たびたび再確認・修正された。 前文と、63か条から構成される。原文はラテン語で書かれている。写本が大量に作られたため、各地に残っているが、イングランド内に現存するオリジナルの文書は4通である[3]。特に重要な規定が以下の5項目である。
マグナ・カルタの構成
教会は国王から自由である。(第1条)
王の決定だけでは戦争協力金などの名目で税金・軍役代納金を集めることができない。(第12条[4])
ロンドンほかの自由市は、交易の自由を持ち、関税を自ら決められる。