マクドネル・ダグラス_DC-10
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一方、1966年アメリカン航空ゼネラル・エレクトリック の工場を視察した際に、C-5A向けに開発されていたTF39型エンジンを見て、このエンジンが旅客機向けに改良されれば、250席クラスでアメリカ大陸の横断も可能な大型旅客機が製造できると考えた[4]。アメリカン航空は同年3月25日に新しい双発の大型旅客機を開発するよう要求していた[3]。これは、アドバンスド・ジャンボ・ツイン中距離旅客機と呼ばれるもので、以下のような仕様となっていた[3]

推力4万ポンド程度の高バイパス比エンジンを搭載

座席はシートピッチ36インチで合計250席

乗客1人当たり250ポンドの手荷物と、5000ポンドの貨物

航続距離は1850ノーティカルマイル(3426キロメートル)

さらに、後に全幅155フィート(47メートル)以内、全長は180フィート(55メートル)以内と改められた。

こうした要望に対して、ダグラスでは「本当に発注するのであれば、要求された仕様の旅客機を1966年には開発に着手する」と公言した[4]。このアメリカン航空からの要求は、ダグラスが構想していた大型旅客機の方向性と一致していた[4]

当初、航空会社側では経済性という観点から、新しく開発される旅客機はエンジンを2基搭載する双発機であることを望んでいた[5]ものの、TF39型エンジン自体がまだ開発中であり、それを民間型に変更したCF6型エンジンの性能は、たとえ開発が順調だったとしても、性能や信頼性に不安があった[5]。そこで、ダグラスではアメリカン航空に対して、どうしても新開発の旅客機はエンジンを3基搭載する3発機でなければならないという結論となったことを伝え、その優位性を説明した[5]。アメリカン航空とユナイテッド航空がこれを認めた[5]ことから、大型ジェット旅客機の開発の目途がついた。アメリカン航空のボーイング747-100

これを受けて、マクドネル・ダグラス社(本節では、以下「ダグラス」とする)では1967年春に、アメリカ国内線向けの3発機と、国際線向けの4発機を開発することを発表した[5]。ダグラスではもともと4発大型旅客機の構想があったことから、同じ機体を基本として航続距離の短い3発機と航続距離の長い4発機を開発することを考えており[5]コックピットボーイング747と同様に2階部分にあり、胴体と主翼とエンジンは共通であった[5]。しかし、この4発機構想に対しては、既にボーイング747が登場していたこともあり、どの航空会社の反応も芳しくなかった。このため、最終的に4発機構想はなくなったが、ダグラス社では同じ胴体で中距離型と長距離型を並行して開発することにこだわり続けた[5]

1960年代の米航空会社と米航空機産業界の認識は、今後は超音速機 (SST) による大陸間と大陸横断路線が実現するのはほぼ間違いないというものであったため、すぐにも登場するSSTを補完する中距離路線用の機体が求められた。当初は双発機も考慮されたが、アメリカ国内には高地も存在しており、1発停止時の安全性を考えた3発機となった。また、当時混雑していたラガーディア空港の狭いゲートに乗り入れられるように翼幅が制限された。このような事情から、航空各社の要求に合わせて開発されたDC-10とトライスターが似た機体となったのは当然の成り行きであった[6]
ローンチ

ロッキード1967年9月にライバル機であるL-1011トライスターの開発体制が整ったと発表した[7]ことで、ダグラス側の基本設計の遅れが明らかになった。ロッキードに少しでも追いつくべく、無理を重ねて同年11月にDC-10の開発計画を発表したが、この時点ではまだ基本設計が完了しておらず、詳細仕様を明らかにすることは出来なかった[7]

その後、1968年2月19日にアメリカン航空からオプションを含めて50機を受注したが、これはトライスターよりも早かった[8]。しかし、すぐ後にトライスターの受注も進み、同年4月3日にはトライスターのローンチ(生産プログラム開始)が発表された[8]。この時点においても、DC-10の詳細設計はまだまとまっていなかったが、これ以上ローンチを遅らせるわけにいかないと考え[9]、同年4月25日にユナイテッド航空からオプションを含めて60機受注したのを機に、ローンチを発表することになった。なおマクドネル・ダグラスは、DC-10の販売を阻害しないために、DC-8の生産を1972年を持って中止すると発表した。
販売戦争から生産終了までユナイテッド航空のDC-10ブリティッシュ・カレドニアン航空のDC-10

DC-10の基本設計は、できるだけ新技術の導入を避け、既存の工法と制御システムだけでまとめられている。このため、ローンチこそ遅れたものの、その後カリフォルニア州ロングビーチの工場で行われた製造は順調で[10]1970年7月にはロールアウト、同年8月29日に初飛行を行なった。飛行テストも順調に進み、1971年7月29日には、ローンチカスタマーであるアメリカン航空とユナイテッド航空へ、最初のDC-10の引渡しが行なわれ[11]、その年のうちに就役した[注 4][6]

長距離路線を担うと期待されていたSSTは1971年に開発計画が中止され、1976年には欧州製のコンコルドが就航していたが、この頃には超音速旅客機への期待は薄れており、B-747が国際線での長距離大量輸送を担う機体シリーズとして再認識され、アメリカ国内線で成功しつつあったDC-10も長距離型の-30や-40が開発されることになった。

DC-10-10を国内線に導入したアメリカン航空ユナイテッド航空を皮切りに、-30や-40をルフトハンザ航空KLMオランダ航空ブリティッシュ・カレドニアン航空ヴァリグ・ブラジル航空などの世界中の大手航空会社が導入し、アジアでもシンガポール航空タイ国際航空マレーシア航空大韓航空などが導入したほか、日本では日本航空が-40型を、日本エアシステムミネベア航空が-30型を導入した。

なお本機と1972年に運航を開始したトライスターは、共にアメリカ国内の中距離路線向けに開発された機体であったため、ダンピングを含む販売競争が繰り広げられた。結果、トライスターに至っては政界と全日本空輸商社を巻き込んだ贈収賄事件まで起き、関係者から逮捕者のみならず不審死者まで出た(ロッキード事件)。


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