マクドナルド
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

特に興味を持ったのは客席回転率が大変高いことで、相当数の人数の客を次々とさばけることだった[19]。感心したクロックは、ミキサーのメンテナンスのために再び店舗を訪れた際、システムフランチャイズ形式にして販売する商売を始めてはどうかと勧めた。

兄弟は「自分たちのためにこの店をやっているだけで、フランチャイズをするつもりはない」と消極的だったが、クロックが交渉を粘った末に「兄弟はこの店以外干渉しない」「クロックはこの店には干渉しない」「マクドナルドという名とシステムは、クロックが事業に使う」で合意する。兄弟が要求した契約金もかなり高かったものの、クロックはたくみに契約を交わした。マクドナルド兄弟側にとっては、これは悲劇の始まりであった。自分たちの強みのひとつである「McDonald's」という(アメリカ人が強い親しみを感じるMc(マック)で始めるアイルランド系の名前を冠した)ブランドを、赤の他人が使える状況を生んでしまい、最終的にはマクドナルド兄弟の店(つまり大本になっていた本店中の本店)の周辺にまでクロック側の店舗が進出、侵略してきて、売上をうばわれ、結局、兄弟は自分たちの店をクロックのせいで失う結末になったからである。そして兄弟は、事実上クロックにマクドナルドを乗っ取られ、自分たちの仕事に見合う財産は築けなかったとされる[20]

クロックはマクドナルドを売り込むために熱心に働き、建設中だったディズニーランドにマクドナルドを入居させるようウォルト・ディズニーにも直接会って積極的に売り込んだ。この試みは失敗したが、クロックはイリノイ州デスプレインズに最初のフランチャイズ店を出店し、間もなく成功を収める。1955年3月2日、新会社McDonald's Systems Inc.を設立、同年4月15日にクロックの直営1号店をシカゴに出店した[21]。1960年、社名をマクドナルドコーポレーション ("McDonald's Corporation") に変更した。
ロナルド・マクドナルド

クロックのマーケティング戦略のうちの一つは家族や子供を商売の対象とすることだった。1960年代初め、首都ワシントンでマクドナルドのフランチャイズ権を購入していたオスカー・ゴールドスティン (Oscar Goldstein) が、ウィラード・スコット (Willard Scott) という道化師が所属するBozo's Circus(荒くれ男のサーカス)という名の興行に出資した。興行が中止されると、ゴールドスティンはマクドナルドのマスコットキャラクターとしてスコットを雇い、ロナルド・マクドナルド (Ronald McDonald)と命名した。スコットはロナルド役で1963年から約2年間コマーシャルに出演した[22]

ロナルドは少々太り気味だったが、広告を通じてマクドナルドの全国展開に貢献した。続いてロナルド以外のキャラクターも開発されていった。

日本では販売戦略上の理由、および日本語話者には発音しづらい事から藤田田によって「ドナルド・マクドナルド」と訳されており、当初より子供向けCMに出演している。
クロックによる経営権買収とマクドナルド兄弟の苦境

クロックと兄弟の契約においては、兄弟が生産工程について責任を負い、会社の株式による利益を受け取る一方でクロックが販売拡張の全責任を負うことが決められていた。だが1961年までにクロックは拡張に失敗する。兄弟は1961年に270万ドルでマクドナルドの全権利をクロックに売却することで合意した。高額な取引であったが、長期的な利益になると判断したクロックはプリンストン大学の関係者などから出資を募り、兄弟の持つ株式を270万ドルで購入した。

契約によりマクドナルドの名称もクロックに移管されたため、兄弟は店を "The Big M"(ザ・ビッグM)と改称して営業を続けた。しかしクロックは兄弟の店のすぐ北側にマクドナルドの大型新店舗を出店し、兄弟の店舗の売上を意図的に奪った。その結果兄弟の経営する"The Big M"は倒産してしまった。

1984年1月にクロックは死去した。本当の創業者はマクドナルド兄弟であるにもかかわらず、1年間マクドナルドは「創業者追悼キャンペーン」と銘打った特売を行った。これを知った兄弟の弟リチャードは激怒したとされる。

経営権委譲に伴う合意事項には、譲渡後もチェーンの売り上げの1%を将来的に支払うという「紳士協定」があったが、契約書には組み込まれていなかったことをいいことに、クロックの手に渡ったマクドナルドはその紳士協定を守らなかった。もし守られていたら、兄弟は年に3億6000万ドルを手にすることになっていたはずだった[23]
拡張詳細は「:en:List of countries with McDonald's restaurants」を参照

以後マクドナルドは、世界の至るところに店を開いた。アメリカ外で初めて進出した国は1967年6月3日に1号店を開いたカナダである。1971年にはオセアニアオーストラリア)、アジア日本)、ヨーロッパオランダ)の各地域に初めて進出した。1990年1月31日にはソビエト連邦モスクワで、共産圏として初めてのマクドナルドが開店した[24]

マクドナルドのビッグマックの価格は、ビッグマック指数と呼ばれ、通貨間の購買力平均価格の比較手段として使われた。この指標の考案者はイギリスの経済雑誌『エコノミスト』誌 (The Economist) である。マクドナルドの標準化は、同時に生活様式や経済活動のグローバリゼーションを意味した。

トーマス・フリードマンは自著の『レクサスオリーブの木』の中で、“黄金のM型アーチ理論”として「マクドナルドのある国同士は戦争を行わないだろう」と予言したが、1999年にアメリカ合衆国のセルビア爆撃によって破られている。
競争激化

アメリカをはじめとする先進国においては、より高価で高品質なハンバーガーや、より多面的サービスを提供している他のファストフードレストランチェーンとの競争が激しくなっている。

アメリカの食堂専門雑誌による2002年調査によると、マクドナルドの順位は「バーガーキング」と「ホワイト・キャッスル」より下で、ハンバーガーの食品品質は第15位だった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:181 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef