マクドナルド
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日本法人の正式名称は、「日本マクドナルド」であり、ブランド名の正式なカタカナ表記に関しては「マクドナルド」や「マクドナルド ハンバーガー」である。

略称のほうに関しては、日本マクドナルドからは公式な発表はなされていない。「マック」と「マクド」について、「どちらが正しいというものではない」「正解はない」、どちらの呼び方であれ親しみを込めて呼んでもらえることは嬉しい、と同社では説明している[10][11]。日本国内の略称は地域差があり[12]東日本九州などでは「マック」と呼ばれる傾向があり、近畿地方(と周辺)では「マクド」と呼ばれる傾向がある、という[10][13][14]。GMOメディアの「ウィふり調査団」の調査によると、「マック派」は南東北中国地方四国九州にも広がっているのに対して[10]、「マクド派」は近畿(付近)に限定されている[10]。2016年に日本マクドナルドが公式に行った社内調査でも「マクド」と呼ぶのは近畿と四国の計11府県[注釈 1]だったとしている[15]。つまり、日本全体を見渡して総合すると「マック派」が優勢のようだとしている[10]

なお、当社で販売されている商品の名称に「ビッグマック」「マックシェイク」などがあることを理由に(また販売商品に「マクド○○」などという商品はないことを理由に)「マック」の方を肯定する人もいる[16]

また、日本マクドナルドとしてもこの略称論争を逆手にとった販促キャンペーンを2017年に行ったことがある[15]

フランス語では、発音が日本と同様になることに加えて、「マック」は「売春仲買人」や「ポン引き」を意味する隠語になることから、近畿圏同様「マクド」と略されている[16]

中国語では漢字で「麦当?」(簡体字)、「麥當勞」(繁体字)と表記し、「マイタンラオ」(?音:Maid?nglao)と発音する。
ギャラリー

ビッグマック

ビッグマックを大型にしたメガマック2007年

フィレオフィッシュ金曜日を食べないカトリック教徒向けに1963年に発売開始された。

歴史
開業初期のマクドナルドのキャラクターのスピーディー(Speedee)初期のマクドナルドの店舗

最初のマクドナルドはアメリカ合衆国カリフォルニア州サンバーナーディノマクドナルド兄弟1940年に開店したものである。「スピード・サービス・システム」の売り文句と、工場式のハンバーガー製造方法、そしてセルフサービスの仕組みにより、1948年頃から同地域で有名になった。
レイ・クロック

1954年に、ミルクシェイクミキサーの営業員(車でアメリカ各地を周り、飲食店に商品のミキサーを販売する仕事)でボヘミアユダヤ系レイ・クロック (Ray Kroc)[17][18] が偶然マクドナルド兄弟の店舗を訪れた。クロックは繁盛する店内を見てマクドナルドの仕組みについて興味を持った。特に興味を持ったのは客席回転率が大変高いことで、相当数の人数の客を次々とさばけることだった[19]。感心したクロックは、ミキサーのメンテナンスのために再び店舗を訪れた際、システムフランチャイズ形式にして販売する商売を始めてはどうかと勧めた。

兄弟は「自分たちのためにこの店をやっているだけで、フランチャイズをするつもりはない」と消極的だったが、クロックが交渉を粘った末に「兄弟はこの店以外干渉しない」「クロックはこの店には干渉しない」「マクドナルドという名とシステムは、クロックが事業に使う」で合意する。兄弟が要求した契約金もかなり高かったものの、クロックはたくみに契約を交わした。マクドナルド兄弟側にとっては、これは悲劇の始まりであった。自分たちの強みのひとつである「McDonald's」という(アメリカ人が強い親しみを感じるMc(マック)で始めるアイルランド系の名前を冠した)ブランドを、赤の他人が使える状況を生んでしまい、最終的にはマクドナルド兄弟の店(つまり大本になっていた本店中の本店)の周辺にまでクロック側の店舗が進出、侵略してきて、売上をうばわれ、結局、兄弟は自分たちの店をクロックのせいで失う結末になったからである。そして兄弟は、事実上クロックにマクドナルドを乗っ取られ、自分たちの仕事に見合う財産は築けなかったとされる[20]

クロックはマクドナルドを売り込むために熱心に働き、建設中だったディズニーランドにマクドナルドを入居させるようウォルト・ディズニーにも直接会って積極的に売り込んだ。この試みは失敗したが、クロックはイリノイ州デスプレインズに最初のフランチャイズ店を出店し、間もなく成功を収める。1955年3月2日、新会社McDonald's Systems Inc.を設立、同年4月15日にクロックの直営1号店をシカゴに出店した[21]。1960年、社名をマクドナルドコーポレーション ("McDonald's Corporation") に変更した。
ロナルド・マクドナルド

クロックのマーケティング戦略のうちの一つは家族や子供を商売の対象とすることだった。1960年代初め、首都ワシントンでマクドナルドのフランチャイズ権を購入していたオスカー・ゴールドスティン (Oscar Goldstein) が、ウィラード・スコット (Willard Scott) という道化師が所属するBozo's Circus(荒くれ男のサーカス)という名の興行に出資した。興行が中止されると、ゴールドスティンはマクドナルドのマスコットキャラクターとしてスコットを雇い、ロナルド・マクドナルド (Ronald McDonald)と命名した。スコットはロナルド役で1963年から約2年間コマーシャルに出演した[22]

ロナルドは少々太り気味だったが、広告を通じてマクドナルドの全国展開に貢献した。続いてロナルド以外のキャラクターも開発されていった。

日本では販売戦略上の理由、および日本語話者には発音しづらい事から藤田田によって「ドナルド・マクドナルド」と訳されており、当初より子供向けCMに出演している。
クロックによる経営権買収とマクドナルド兄弟の苦境

クロックと兄弟の契約においては、兄弟が生産工程について責任を負い、会社の株式による利益を受け取る一方でクロックが販売拡張の全責任を負うことが決められていた。だが1961年までにクロックは拡張に失敗する。兄弟は1961年に270万ドルでマクドナルドの全権利をクロックに売却することで合意した。高額な取引であったが、長期的な利益になると判断したクロックはプリンストン大学の関係者などから出資を募り、兄弟の持つ株式を270万ドルで購入した。

契約によりマクドナルドの名称もクロックに移管されたため、兄弟は店を "The Big M"(ザ・ビッグM)と改称して営業を続けた。しかしクロックは兄弟の店のすぐ北側にマクドナルドの大型新店舗を出店し、兄弟の店舗の売上を意図的に奪った。その結果兄弟の経営する"The Big M"は倒産してしまった。

1984年1月にクロックは死去した。本当の創業者はマクドナルド兄弟であるにもかかわらず、1年間マクドナルドは「創業者追悼キャンペーン」と銘打った特売を行った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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