2人の間には6人の子供が生まれた。
長女 ヘルガ(1932年9月1日 - 1945年5月1日)
次女 ヒルデ(1934年4月13日 - 1945年5月1日)
長男 ヘルムート(1935年10月2日 - 1945年5月1日)
三女 ヘッダ(1937年2月19日 - 1945年5月1日)
四女 ホルデ(1938年5月5日 - 1945年5月1日)
五女 ハイデ(1940年10月29日 - 1945年5月1日)
このほかクヴァント家に生まれた息子ハラルトはゲッベルスと養子縁組をしている。
子供たち全員がHの頭文字で始まる名前であることについて、ヒトラーのHではないかと言われるが、これは真実とは言えない。例えば、マクダはゲッベルスの第一子を妊娠した時、クヴァント家の亡き息子の名にこだわってヘルムートという名前を付けたかったが、結局女の子であったため急遽ヘルガと命名した。ホルデが生まれたときも、取り上げてくれた医師が「なんて可愛い!(可愛いはドイツ語で hold)」と言ったからであり、後から見て偶然そうだったという程度のものである。ゲッベルスは結婚後も女性との交際が激しく、マクダもゲッベルスの副官カール・ハンケとの仲を取りざたされるなど、ゴシップの絶えない夫婦であったが、夫妻には6人の子供たちがおり、金髪で美しく賢いマクダは理想的な女性として見なされた。選挙民の半分が女性であることを考慮してヒトラーは独身で通していたため、第三帝国のファーストレディの責務はマクダが担うことになり、賓客のレセプション、舞踏会、外交といった華やかな舞台で活躍した。1933年頃より「ドイツの理想の母」としてラジオや国内外の新聞を通じてプロパガンダに努めるようになっていく。また、マクダは自分に似てゲルマンらしい風貌の自分の子供たちの出演(大戦下の1942年には34回にも上った)する週間ニュース映画を撮影させて、ゲルマン人こそアーリア人の血統を継ぐ民族という当時の思想を宣伝しようとした。マクダは多忙で家にいることはほとんどなく、実際に子供たちの世話をしていたのは何人かの子守の女性と家庭教師たちであった。
第二次大戦下ヒトラーとゲッベルス一家。1938年。
1938年、チェコの女優リダ・バーロヴァと夫の不貞がマクダの知るところとなった。ゲッベルスはマクダと別れてリダと結婚し、ドイツを離れて日本大使になることも考えていたが、「看板夫婦」の離婚は避けたいヒトラーが仲裁に入り、ゲッベルスはリダと別れた。リダの出演映画はドイツで上映禁止となった。
1939年にナチス・ドイツはポーランドに侵攻し、英仏両国が参戦。1941年にモスクワ侵攻(バルバロッサ作戦)に失敗すると、ゲッベルスはヒトラーとヘルマン・ゲーリング国家元帥を批判することが多くなる。その頃のマクダは子供たちと共に野戦病院を訪れるというプロパガンダ映画を撮ることが多かったが、子供たちにとっては恐怖と苦痛の伴う経験であり、マクダ自身も陰では酒に癒しを求めていた。激しくなるベルリンへの空襲を避けて、マクダと子供たちは疎開をするが、1943年頃よりマクダは気を失うほどの三叉神経痛に悩まされるようになり、1944年8月には入院している。
すでに敗戦は決定的であり、マクダは「ロシア人がベルリンに足を踏み入れた時がその時よ」と覚悟を語っていた。1945年4月20日、ソビエト赤軍がベルリンに入り、ベルリンの戦いが始まる。22日、ゲッベルスは妻子を総統地下壕に連れて来させたが、子供たちには「持ち込む着替えは少し、おもちゃも一つだけ」と制限して、野営用の簡易ベッドを入れた一部屋を使わせた。地下壕のバスルームはヒトラー用に一つあるだけだったが、ヒトラーはマクダと子どもたちの使用を許している。軍需相アルベルト・シュペーアらからは、折を見て子供たちを安全な場所に避難させようという申し出もあったが、マクダはこれを拒否した。マクダは時折子供たちに周囲を明るくさせるような歌を歌わせていたが、自らは次第に言葉を発しなくなっていった。29日、立会人としてヒトラーとエーファ・ブラウンの結婚を見届けるが、翌日ヒトラーとエーファは自殺する。ヒトラーの遺言を受けてゲッベルスはナチス・ドイツの首相に就任、赤軍から無条件降伏を求められたが拒否したため交渉は決裂した。 4月28日、マクダは23歳の息子ハラルトに宛てて手紙を記している。ハラルトは空軍のパイロットとして出征したが、当時は北アフリカで捕虜になっていた。 ?Mein geliebter Sohn! Nun sind wir schon 6 Tage hier im Fuhrerbunker, Pappa, deine sechs kleinen Geschwister und ich, um unseren nationalsozialistischen Leben den einzigmoglichen ehrenvollen Abschluss zu geben … Ob Du diesen Brief erhaltst weiss ich nicht, vielleicht gibt es doch eine menschliche Seele, die es mir ermoglicht letzte Gruse zu senden. Du solltest wissen, dass ich gegen den Willen Pappa’s bei ihm geblieben bin, dass noch vorigen Sonntag der Fuhrer mir helfen wollte hier herauszukommen. Du kennst deine Mutter, wir haben dasselbe Blut, es gab fur mich keine Uberlegung. Unsere herrliche Idee geht zu Grunde, und mit ihr alles was ich Schones, Bewundernswertes, Edles und Gutes in meinem Leben gekannt habe. Die Welt, die nach dem Fuhrer und dem Nationalsozialismus kommt ist nicht mehr wert darin zu leben und deshalb habe ich auch die Kinder hierher mitgenommen. Sie sind zu schade fur das nach uns kommende Leben und ein Gnadiger Gott wird mich verstehen, wenn ich selbst ihnen die Erlosung geben werde. Du wirst weiterleben, und ich habe die einzige Bitte an Dich: Vergis nie, das Du ein Deutscher bist, tue nie etwas, was gegen die Ehre ist und sorge dafur, das durch Dein Leben unser Tod nicht umsonst gewesen ist. Die Kinder sind wunderbar …, niemals ein Wort der Klage oder ein Weinen. Die Einschlage erschuttern den Bunker. Die Groseren beschutzen die noch Kleineren, und ihre Anwesenheit ist schon dadurch ein Segen, dass sie dem Fuhrer ab und an ein Lacheln abgewinnen. Gott gebe, dass mir die Kraft bleibt, um das Letzte und Schwerste zu schaffen. Wir haben nur noch ein Ziel: Treue bis in den Tod dem Fuhrer. Harald, lieber Junge ? ich gebe dir noch das mit, was mich das Leben gelehrt hat: Sei treu! Treu dir selbst, treu den Menschen und treu deinem Land gegenuber … Sei stolz auf uns, und versuche uns in freudiger Erinnerung zu behalten …“ (日本語訳) 愛する私の息子よ!官邸の地下壕に来て6日、お前のパパ、6人の弟妹たち、そして私は今、国家社会主義者として唯一受容できる名誉ある終焉を迎えようとしています。お前も知っているように、パパは私たちがここに残ることに反対だったし、この前の日曜日(訳者注/22日のこと)には総統までもが私たちを逃がしたいと言ってくださったのです。同じ血の流れるお前ならわかるでしょう、私にはもう迷いはありません。私たちが抱いた理想は崩れ去りましたが、実現していたらこの世はどんなに壮麗で甘美なものだったでしょうか。総統と国家社会主義が消えた後の世界など、もう生きる価値のないものですから、子供たちをここに連れてきたのです。これからの世の中など、この良い子達はもったいないですもの。私がこの子達を救済することについて、慈悲深い神はきっと理解してくださるはず。子供たちは立派ですよ。文句も言わず、泣くこともありません。爆撃で地下壕が揺れると、上の子が下の子達をかばってくれるのです。子供たちがいるだけで、神の恩恵が感じられ、総統でさえ時折微笑みを浮かべるほどです。最後の、そして最も辛いその時にも強くいられますように。私たちは今、唯一残されたゴールに向かっています。それは死んでも変わらない総統への忠誠です。ハラルト、私の息子よ、私が人生で学んだことをお前に残してやりたい。誠実でいなさい!自分自身に、他人に、そして祖国に…。私たちを誇りに思って。そして私たちのことを忘れないで欲しい…。 1945年5月1日、ゲッベルス夫妻が子供たちをどのように殺害したかについては諸説あり、いずれも今となっては真実と証明することができない。例えば、マクダが子供たちにモルヒネ入りのココアを与えて眠らせ、ルートヴィヒ・シュトゥンプフエッガー医師に青酸カリの投与をさせたという説や、モルヒネも青酸カリもヘルムート・クンツ
マクダの最後の手紙
子供たちの殺害と自殺「ゲッベルス家の子どもたち」も参照
後日ソビエト軍が地下壕に踏み込んだ際、子供たちの遺体は寝巻を着せられ、女児たちは髪をリボンで結んで寝台に寝かせられていたが、12歳の長女ヘルガは感づいたらしく、抵抗か苦痛かのために体に打撲の痕が見られることがソビエト赤軍の検案書に記されている。