マクシミリアンは言語面での発達が遅く、5歳まで言葉を喋れなかった[10]。母后の期待を一身に背負い成長するが、彼女はマクシミリアンが8歳のときに逝去した。マクシミリアンの社交的で明るい性格や芸術・学問への関心は、母エレオノーレの影響が大きいとされる[11][12]。一方、母の早世により信仰心は深まり、父帝同様に錬金術や迷信にも関心を持った[13]。 マクシミリアンは父フリードリヒ3世が付けたスコラ学の家庭教師に関心を示さず、一方、乗馬をはじめあらゆる武芸に秀でた。親しい学友にウォルフガング・フォン・ポルハイム
若き「騎士」として
マクシミリアンは騎士道物語や年代記、紋章学などに関心を持ち、宮廷にかつて出仕していたカスパール・シュリック(ドイツ語版)やエネアス・シルヴィウス・ピッコローミニらの書物による影響を受けた[14]。
10代に成長したマクシミリアンは、眉目秀麗な若者となり、その話術は多くの人を惹きつけた[15]。結婚直前まで唯一の妹クニグンデの侍女であるロジーナ・クライクに思いを寄せていたとされる[16]。
ブルゴーニュ公家との縁談1470年代のブルゴーニュ公国の版図
当時のブルゴーニュ公国は、現代のフランスのブルゴーニュ地方、ロレーヌ地方(独:ロートリンゲン)、またベルギー・オランダ・ルクセンブルク(ブルゴーニュ領ネーデルラント)にまたがる広大な範囲で、かつ毛織物産業を中心とした貿易で経済的に繁栄し、北方ルネッサンス文化の中心地であった。
野心家のブルゴーニュ公シャルル(突進公/テメレール)は武力によってさらなる勢力拡大(ブルゴーニュ戦争)と、公爵からの昇格を目指していた[17]。シャルル突進公の唯一の子女でブルゴーニュ公国の相続人マリーには、数多くの縁談申し込みがあったが、シャルル突進公は王または皇帝位に近づけるという望みから、マリーとマクシミリアンの縁談に関心を示す[18][19]。
1473年9月30日、皇帝フリードリヒ3世とシャルル突進公は、トリーアで会談し、対仏政策やオスマン討伐を議論することとした[18]。皇帝側は14歳のマクシミリアンと1000人の従者を引き連れ、またシャルル突進公も1万人を超す兵力とともに贅を尽くして皇帝一行を歓待した[20]。シャルル突進公は、マクシミリアンのことを非常に気に入り、ブルゴーニュの経済力を盾に、2人の縁談と自身のローマ王指名をまとめようとする。しかし、フランス王国および帝国諸侯の反発を招く恐れがあり、フリードリヒ3世は慎重になり、11月24日に密かに皇帝とマクシミリアン、宰相レープヴァイン、マクシミリアンの学友と従者2名のわずか6名でモーゼル川を下ってコブレンツへ逐電した[21]。
激怒したシャルル突進公は、ブルゴーニュ戦争において帝国に報復するが、戦いが膠着すると、1476年4月になって、ローマ王指名の要望を取り下げ、マリーとマクシミリアンの婚約のみを再度申し込んだ[22]。一方の皇帝側も、ハンガリー王マーチャーシュ1世にウィーンをはじめニーダーエスターライヒを陥落させられ敗走しており、縁談は難無くまとまった。
マクシミリアンは皇帝の親書と自身の肖像画をヘント(仏:ガン、独:ゲント)に送る際、ダイヤモンドの指輪を贈り、マリーも感謝状と指輪を贈った[23]。このやり取りを婚約指輪の起源とする説がある[24]。
ブルゴーニュ公
ブルゴーニュ継承戦争マリーとの対面(19世紀画)
1477年1月5日、シャルル突進公はナンシーの戦いで戦死し、ブルゴーニュ公国内は大混乱に陥った。国内では専制的だったシャルル突進公への不満が蓄積していた貴族や商人が権利の拡大を画策し[25]、さらにフランス王ルイ11世もブルゴーニュ公爵領・フランシュ=コンテを接収し、ネーデルラントに程近いピカルディー、アルトワを占拠した。こうした事態に、ネーデルランド各地でも反乱が起こり、同年2月11日には、大特許状を容認せざるを得なくなる[26]。忠臣を処刑され、義母マルグリット妃とも引き離され孤立無援のマリーは、3月26日付でマクシミリアンに救いを求める手紙を出す[27]。
何とか現金を都合した皇帝は、5月21日にマクシミリアンをウィーンから見送る。マクシミリアン一行は各地で歓迎を受け、特に大都市ケルンでは、後に将軍として活躍するクリストフ・フォン・バーデンやアルブレヒト・フォン・ザクセンと初めて対面する[28]。ケルンで資金が尽きるが、マルグリット妃の援助により窮地を脱し[29]、8月18日深夜、一行はヘントに到着し、マリーと対面する。2人は言葉こそ通じなかったが、互いに愛しあい、その夜のうちに床入りしたことを記録する文書が残っている[30]。