マクシミリアン・ロベスピエール
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しかし、国民公会が派遣した国民衛兵に包囲されて逮捕され、弟オーギュスタンやルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュストらと共にギロチンで処刑された(テルミドール反動[3]
生涯
前半生
誕生(1758年)ロベスピエールの出生証明書(1758年)。

マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(以下、マクシミリアン、あるいはロベスピエールと略記)は、1758年5月6日フランス北部に位置するアルトワ州(現在のパ=ド=カレー県)の地方都市アラスで生まれた。父は結婚当時26歳で法曹家のフランソワ・ド・ロベスピエール(フランス語版)。母は22歳でビール製造業者の娘ジャクリーヌ・カロである[4][5]

母は正式な婚姻の前に既に妊娠中(妊娠五カ月目)であった。敬虔さを重んじるアラスの町での当時の価値観では良家の子女にあるまじき不名誉な結婚であった。結婚をめぐってトラブルが生じたもののフランソワは男子の責任を果たす[6]。間もなくジャクリーヌは出産してマクシミリアンが誕生するが、出生における瑕疵は彼を生涯苦しめ、その後の人生を規定していく。ジャクリーヌは多産で長男マクシミリアンの後、シャルロット(フランス語版)(1760年)、アンリエッタ(1761年)、そしてオーギュスタン(1763年)が間を置かずに生まれた。
幼少期(1760年代)

父フランソワは優秀な弁護士で、年に30件ほどの訴訟案件を担当、彼の弁護士事務所は成功を収めていた。しかし、オーギュスタンが生まれて一年が経った1764年、家族に悲劇が襲う。当時としては珍しいことではなかったが、母ジャクリーヌは五番目の子供を出産中に死亡したのである[5][7]。母の死によってそれまで幸せだった家族は急激に破綻していく。父フランソワは絶望で打ちひしがれたのか妻の葬儀に出席しなかった[7]。12月、彼はアラス東方15マイルに位置するオワジ=ジ=ヴェルジェにあって荘園を領有する貴族に仕える法務官となった。法務官の任を果たした後に父フランソワはアラスに戻ってきているが、妻を思い出して辛くなるのを恐れてか残された家族と暮らすことはなかった。家族を捨てた父は仕事で神聖ローマ帝国マンハイムに向かって故郷を離れていき、その後終生子供たちに会うことはなかった[8][9]

マクシミリアンと彼の弟妹は幼くして母を亡くし、父も家を離れたたため、家族は離散を余儀なくされた。妹二人は父方の叔母に引き取られる一方、マクシミリアンとオーギュスタンはそれぞれ6歳と1歳の時に母方のカロ家の祖父母の家で引き取られ、そこに同居している叔母のアンリエットに養育されることとなった[9]。祖父母の家はロンヴィル通りに面した所にあり、マクシミリアンは手工業を生業とする労働者が行き交う騒がしい街で成長していくこととなった。ちょうどこの時にマクシミリアンは天然痘に罹患して顔に軽度のあばたが残った[10]

なお、父の不在とネグレクトでマクシミリアンは孤児となって家族の愛情を受けられず不安定な家庭環境の中で成長して、成人後は人間的温かみに欠けた歪んだ人間になったと語られることが多い[注釈 2]が、歴史家ピーター・マクフィー(英語版)によればこうした見解は事実ではないという[11]

6歳までは母親からの愛情を受けて成長し、母親の死後は叔母をはじめ温かい親族に支えられながら養育を受けたほか、家から数分の距離に住む姉妹とも頻繁に会える環境で暮らしており、決して孤独でも不幸な境遇に置かれたわけではなかったと指摘されている[12]。ただし、甘え盛りの幼少期にマクシミリアンが母の死と家族離散から受けた打撃は大きく、子供らしい陽気で騒々しく乱暴な少年の人間形成に変化が生じて、成人後に人々から知られた人格を形成しはじめ「生真面目で思慮分別のある勤勉な人間」へと成長していった。アラスの活気ある市街の拡大や大聖堂の修築など建設ラッシュとは対照的に、敬虔なカトリック信者であった叔母たちの影響で規則正しく節制を重んじる平静な暮らしを送っていた。その後の少年期はケンカや騒々しい遊びではなく、読書と模型作りに熱中し、鳩やスズメをペットにして絵を描くことに情熱を注ぐ内向的な子供になっていった。日曜日には兄弟姉妹がロンヴィルの家に集まって兄弟愛に満ちた幸せと喜びに満ちた日々を過ごしていたという[13]

マクシミリアンは叔母に読書算を教わり、8歳になると地元アラスの中等教育機関コレージュに通い始めた。コレージュでは古典教養としてラテン語地理歴史が教えられた。また、アラスはフランスの国境地帯に位置し、ピカルディ方言が強かった地域だったため、この地域での教育は首都パリで話されたフランス語の習得が特に重視された。コレージュには四百人の生徒が通っていたが、頭脳明晰なマクシミリアンはすぐに群を抜いた存在となっていく。両親のいない家庭で弟妹を抱えた少年は、勉学していずれは自分が家族を守っていかなければならないという責任感を抱え、必死で勉強していった。11歳の時に弁論大会に参加する一団に選抜され、ラテン語のテキストに注釈を加える能力を披露するなど優秀な成績を残した。やがて、奨学金を得てパリのリセ・ルイ=ル=グランに学ぶこととなった[9][14]
ルイ大王校時代(1769年-1781年)

マクシミリアンは12歳になり、少年期に入るときに転機が訪れる。リセ・ルイ=ル=グラン(ルイ大王校)への進学が決まり、パリへと旅立つこととなった。彼はこの学院に所属し、8年間にわたり寮生活を送った。ルイ=ル=グラン校はカルチエ・ラタンに所在しており、パリ大学教養学部の付属校を形成していた[15]。学院は徳育を重視して規律と倫理性を備えた市民を育成することを目標と定めて、その環境は厳格な風紀を順守を求めるものであった。学校の規律はカトリックの秩序を重んじた敬虔な暮らし方を送ることを旨とし、集団寮生活の下で生活時間の規律化に順応することが求められた[16]

同校には500人が奨学生として所属していた。カリキュラムは、低学年でラテン語文法とフランス語の学習、高学年ではラテン語文献の講読、プルタルコスの『対比列伝』、キケロの『弁論家について』など古典学習のほかローマ史に精通すべく授業が組まれ、ギリシア語文献については特にアリストテレス哲学が履修対象とされ、最高学年になると道徳哲学論理学の講義され、ボシュエ王権神授説モンテスキュー『ローマ人衰亡原因論』の教授がおこなわれた[17]。そこでは多数の出会いがあった。学窓のカミーユ・デムーランもその一人であり、後のフランス革命の立役者たちがここで育った[18]


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