マギル大学
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「マギル大学ワルツ」(McGill University Waltz)はフランセ・C・ロビンソン(Frances C. Robinson)によって作曲された[28]

1885年、大学の理事会は、公式に大学名を「マギル大学」(McGill University)とする採決をした。1905年、マギル大学の主要な寄付者であったウイリアム・C・マクドナルド卿(英語版)からカレッジを受贈する。所在地はモントリオールの西32km、サンタンドゥベルヴュー地区のマクドナルド・カレッジ(Macdonald College)と呼ばれており、現在のマクドナルド・キャンパス(英語版)である。1907年にマギル大学の学生を受け入れた当時は、農学と家政学、教育学を教えた(として知られている)。

ジョージ・アレン・ロス(George Allan Ross)は1922–23年に病理学棟を設計し、1933年に神経学研究所、1938年に神経学研究所附属棟を手がける[29]。ジャン・ジュリアン・ペロー(Jean Julien Perrault)がチャールズ・E・グラヴェル(Charles E. Gravel)の依頼を受けて1934年に設計したマクタヴィッシュ通り(英語版)のレジデンスは、現在、デヴィッド・トンプソン・ハウスと呼ばれている。
女性教育

マギル大学における女性教育は1884年に始まった。ストラスコーナ卿(英語版)として知られるドナルド・スミス(英語版)が、大学教員によって行われる女学生への講義のための資金を提供し始めた。

1888年、マギル大学は女性に初めて学位を授与した[30]

1889年、ロイヤル・ヴィクトリア・カレッジ(Royal Victoria College: RVC)が寄宿制の女子大学として開校され、ヒルダ・D・オークレー(英語版)が初代学長に就任した。

1970年代まで、すべての女子学部生は、「ドナルダズ」(Donaldas)と知られ、RVCのメンバーとされた[31]。2010年秋期初旬、RVCの新タワー部は男女共用宿舎となったが、RVCのウェストウィングは女子専用の堅持している。タワーもウェストウィングも大学の寄宿システムの一部を形成している。
第一次世界大戦時におけるマギル大学

第一次世界大戦時、マギル大学は重要な役割を担った。1914年、国中を席巻した愛国心の高まりの中で、多くの学生や卒業生は兵役に志願した。しかし、イーペル(Ypres)で大量のカナダ人戦死者が出た後、1915年の春、カナダ連隊の創始者でモントリオールの富裕実業家であったハミルトン・ゴールト(Hamilton Gault)は深刻な隊員不足に直面した。彼は在宅の友人に支援を働きかけ、200名以上が兵卒から昇進し、戦争中より多くが兵士として従事した。戦後にカナダに帰還したジョージ・マクドナルド少佐およびジョージ・キューリ少佐(Major George McDonald and Major George Currie)はマクドナルド・キューリ会計事務所を立ち上げ、それはのちにプライスウォーターハウスクーパース(Price Waterhouse Coopers)の創立メンバーの一つとなった[32]。パーシヴァル・モルソン大佐(英語版)は1917年に戦死した。マギル大学のパーシヴァル・モルソン記念スタジアム(英語版)は彼の栄誉から名づけられた。

戦争記念館(War Memorial Hall)はマギル大学キャンパスのランドマークである。慰霊式典においてカナダ総督(ハロルド・アレグザンダー(初代チュニスのアレグザンダー伯爵))が記念館の定礎石を置いた。1946年10月6日、戦争記念館と隣接する記念プールに、第一次・第二次世界大戦で志願して戦死した誉れ高き学生たちに捧げられた。戦争記念館には、チャールズ・ウイリアム・ケルシー(英語版)によって作成された第一次世界大戦と第二次世界大戦の連隊章を型取った2枚のステンドグラスがある[33]。ブラッカダー・ロターマン建築学芸術学図書館の入り口ホールを飾る戦争記念ステンドグラス

また、チャールズ・ウイリアム・ケルシーによって大天使ミカエルと陸海空軍の軍章が装飾された一窓(1950年)が戦争記念館にある。ブラッカダー・ロターマン建築学芸術学図書館(Blackader-Lauterman Library of Architecture and Art)のエントランスには聖ジョージと討伐されたドラゴンを描いた第一次世界大戦記念窓があり、第一次世界大戦で命を捧げたデルタ・ユプシロン(英語版)マギル支部の23名に捧げたものである[34]。戦争記念館の西壁にあるその他6枚の窓は、チャールズ・ウイリアム・ケルシーよって、マギルの卒業生がメンバーであった連隊の紋章が描かれている(1951年)。

大理石の上に置かれているカナダのリメンバランス・ブック(Book of Remembrance)には両世界大戦での戦没者の名前が書かれている。2012年11月11日、マギル・リメンバーズ(McGill Remembers)というウェブサイトが立ち上がり、マギル大学世界大戦記事務局が1940から1946年の間、第二次世界大戦のマギル学生、職員、教員に関する文書を収集した[35]
ユダヤ人学生に対する割り当て

1920年代初めから、続く1960年代まで、マギル大学はユダヤ人新入学生の受入に関して、制限を課していた。その時点まで、マギル大学におけるユダヤ人の割合は大きな比率を占めており、特に教養学部で20%、法学部で40%がユダヤ人であった。ユダヤ人の受入割当はマギル大学全体で最大で10%までと制限した[36]
MKウルトラ計画

マギル大学の医学施設でMKウルトラ計画の実験が極秘裏に行われていた。MKウルトラ計画とは、アメリカ中央情報局(CIA)科学技術本部がタビストック人間関係研究所と極秘裏に実施していた洗脳実験のコードネームであり、アメリカとカナダ両国の国民を被験者として、1950年代初頭から少なくとも1960年代末まで行われていたとされる。
他大学・カレッジの創立

マギル大学はいくつかの主要な大学とカレッジの創立に貢献した。マギル大学はバンクーバービクトリアの都市成長拡大のため、ブリティッシュコロンビア州で、学位プログラムを提供する高等教育機関を設立した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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