マギル大学
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その勅許状に「学位授与を条件として、カレッジは大学とする」と記載されていた[22]
カレッジから大学へ
キャンパス拡張学内で最も古いアーツ棟。1843年完成。ジョン・オステル(en)設計。

マギル・カレッジは1821年に勅許を受けたが、1823年に設立されたモントリオール医学研究所(英語版)が学内初の学術機関となるものの、1829年まで活動はなく、同年、カナダ初の医学部となる。医学部は1833年に医学博士の第1号(Doctor of Medicine and Surgery)、すなわちカナダ初の医学学位保持者を輩出する[23]

医学部は、1843年に教養学部が新築のアーツ棟(Arts Building)と東翼のドーソンホール(Dawson Hall)で教授を開始するまで、唯一カレッジで機能していた学部である[24]

マギル大学は歴史的にカナダ近衛兵団(英語版)とも強いつながりがある。ジェームス・マギルがその軍事連隊の中佐を務めたこと、その階級はアーツ棟前にある記念碑に刻印されていることから、毎年、戦没者追悼記念日に行進をするカナダ近衛兵団は、その石碑を出発地点としている[25]

法学部は1848年に設置された。これはカナダで初めて設置された法学教育に関する学部である。創設から48年、法学部棟が大学構内に建設された。学長職(1855-1893)についたジョン・ウイリアム・ドーソン卿。

1855年から1893年にマギル・カレッジの学長であったジョン・ウイリアム・ドーソン卿(英語版)はカレッジを近代の大学に成長させた[26]。ドーソン学長はモントリオールの富豪たち[注釈 2]から援助を募り、キャンパス内の建築物の建設に必要な資産や資金を受贈した。寄付者の名前はキャンパス内の主要な建物の多くに刻まれている。

1861年、ウイリアム・スピア(William Spier)は、ウイリアム・モルソン(William Molson)のために、アーツ棟に西翼増築を設計した[27]。1888年、アレクサンダー・フランシス・ダンロップ(英語版)は、ボヴィ教授(Prof. Bovey)と理学部(Science Dept.)のために、マギル・カレッジの東翼(現在はマギル大学のアーツ棟と呼ばれている)の主な改築を設計した。キャンパスの拡張は1920年まで続いた。アンドリュー・テイラー(英語版)によって設計された建築物は、レッドパス博物館(英語版)(:1880年)、マクドナルド物理学研究棟(Macdonald Physics Building:1893年)、レッドパス図書館(英語版)(:1893年)、マクドナルド化学研究棟( Macdonald Chemistry Building:1896年)、マクドナルド工学研究棟(Macdonald Engineering Building:1907年。現在はマクドナルド・スチュワート図書館(Macdonald-Stewart Library Building))、ストラスコーナ医学研究棟(Strathcona Medical Building:1907年。現在はストラスコーナ解剖学・歯学研究棟(Strathcona Anatomy and Dentistry Building))がある。

1900年、マギル大学はマクレナン巡回図書館(MacLennan Travelling Library)を設立した。「マギル大学ワルツ」(McGill University Waltz)はフランセ・C・ロビンソン(Frances C. Robinson)によって作曲された[28]

1885年、大学の理事会は、公式に大学名を「マギル大学」(McGill University)とする採決をした。1905年、マギル大学の主要な寄付者であったウイリアム・C・マクドナルド卿(英語版)からカレッジを受贈する。所在地はモントリオールの西32km、サンタンドゥベルヴュー地区のマクドナルド・カレッジ(Macdonald College)と呼ばれており、現在のマクドナルド・キャンパス(英語版)である。1907年にマギル大学の学生を受け入れた当時は、農学と家政学、教育学を教えた(として知られている)。

ジョージ・アレン・ロス(George Allan Ross)は1922–23年に病理学棟を設計し、1933年に神経学研究所、1938年に神経学研究所附属棟を手がける[29]。ジャン・ジュリアン・ペロー(Jean Julien Perrault)がチャールズ・E・グラヴェル(Charles E. Gravel)の依頼を受けて1934年に設計したマクタヴィッシュ通り(英語版)のレジデンスは、現在、デヴィッド・トンプソン・ハウスと呼ばれている。
女性教育

マギル大学における女性教育は1884年に始まった。ストラスコーナ卿(英語版)として知られるドナルド・スミス(英語版)が、大学教員によって行われる女学生への講義のための資金を提供し始めた。

1888年、マギル大学は女性に初めて学位を授与した[30]

1889年、ロイヤル・ヴィクトリア・カレッジ(Royal Victoria College: RVC)が寄宿制の女子大学として開校され、ヒルダ・D・オークレー(英語版)が初代学長に就任した。

1970年代まで、すべての女子学部生は、「ドナルダズ」(Donaldas)と知られ、RVCのメンバーとされた[31]。2010年秋期初旬、RVCの新タワー部は男女共用宿舎となったが、RVCのウェストウィングは女子専用の堅持している。タワーもウェストウィングも大学の寄宿システムの一部を形成している。
第一次世界大戦時におけるマギル大学

第一次世界大戦時、マギル大学は重要な役割を担った。1914年、国中を席巻した愛国心の高まりの中で、多くの学生や卒業生は兵役に志願した。しかし、イーペル(Ypres)で大量のカナダ人戦死者が出た後、1915年の春、カナダ連隊の創始者でモントリオールの富裕実業家であったハミルトン・ゴールト(Hamilton Gault)は深刻な隊員不足に直面した。彼は在宅の友人に支援を働きかけ、200名以上が兵卒から昇進し、戦争中より多くが兵士として従事した。戦後にカナダに帰還したジョージ・マクドナルド少佐およびジョージ・キューリ少佐(Major George McDonald and Major George Currie)はマクドナルド・キューリ会計事務所を立ち上げ、それはのちにプライスウォーターハウスクーパース(Price Waterhouse Coopers)の創立メンバーの一つとなった[32]。パーシヴァル・モルソン大佐(英語版)は1917年に戦死した。マギル大学のパーシヴァル・モルソン記念スタジアム(英語版)は彼の栄誉から名づけられた。

戦争記念館(War Memorial Hall)はマギル大学キャンパスのランドマークである。慰霊式典においてカナダ総督(ハロルド・アレグザンダー(初代チュニスのアレグザンダー伯爵))が記念館の定礎石を置いた。


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