マカオ
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中国大陸南岸の珠江河口(珠江デルタ)に位置する旧ポルトガル海外領土で、現在はカジノモータースポーツ世界遺産を中心とした世界的観光地としても知られる。
概要

珠江の最下流域、西の河口に位置し、中華人民共和国広東省広州からは南西に145km、香港からは南西に70km離れている。広東省の珠海市に接し、中国大陸本土南海岸に突き出たマカオ半島と、沖合の島から構成される。この島は、もともとタイパ島コロアネ島という二つの島であったが、島の間は埋め立てられてコタイと呼ぶ地域となり、全体がひとつの島のようになっている。現在、半島部と旧タイパ島の間は三つの橋でつながれ、コタイから西に珠海市と結ぶ橋もできている。セナド広場

1999年までポルトガルの海外領土であったマカオは、中国大陸のヨーロッパ諸国の植民地の中ではもっとも古く、域内に植民地時代の遺構が数多く点在する。このため、2005年7月15日に、マカオの八つの広場と22の歴史的建造物がマカオ歴史地区という名前でユネスコ世界遺産文化遺産)に登録された。

域内には多くのカジノが運営されていることから、「東洋ラスベガス」ともいわれている。歴史的建造物とカジノが、香港や中華人民共和国本土のほか、東南アジア東アジア域内から多くの観光客を呼び込み、それに隣接しているホテルを含む観光産業が盛んである。毎年11月に市街地を使って行われるマカオグランプリは世界的に著名な自動車レースであり、この時期に多くの観光客をひきつけている。

マカオと香港間は24時間高速船が約1時間で結んでおり、ほかにもヘリコプターによる定期便が頻繁に運航される。日帰りで訪れる香港人や旅行客も多い。2018年10月23日に香港とマカオを結ぶ港珠澳大橋が完成した。
名称

名称の由来には、多数の説があり定かではないが、マカオ半島にある道教、媽閣廟(マーコミュウ)に由来する説が有名である。ポルトガルの船員がマカオの媽閣の前から上陸するときに地名を聞いたら、廟の名前を聞かれたと思い、「媽閣」(広東語 : Ma1gok3、日本語発音 : マーコク)と答えたからと伝えられている[3]。それ以外は、当地の人間は船員の言葉が理解できず、広東語の悪口「?」(広東語 : gau1、日本語発音 : カウ)が混ぜた「???(なに?)」(広東語:Mat1gau1、日本語発音 : マッカウ)の返事を真に受けたという説もある。

媽閣廟は、1448年媽祖を奉るために建設されたもので、現存し、海運、漁業の神として崇拝されている。

澳門は、「澳」が「水が奥深く入り込んだ湾や入り江」を表し、「門」は門のようにそびえ立つ南台山と北台山、また東の大字門と西の小字門から澳門と表記された。歴史的には、?鏡という名が代に記録されているのが最初で、澳門のほか濠鏡澳、濠鏡、海鏡、香山澳などの名称もあった。文語的な表現でマカオは「濠江」(普通話 : Haoji?ng / 日本語発音 : ハウチャン、広東語 : Hou4gong1 / 日本語発音 : ホウコン)とも表記される。が多いことから蓮島、蓮海などの呼称もあり、区旗モチーフにも使われている。

「Macau」の広東語音訳として馬交(広東語:Ma5gaau1、日本語発音 : マーカウ)という表記が用いられることもある。ポルトガル領時代の正式名称は Cidade do Nome de Deus de Macau, Nao Ha Outra Mais Leal(「最も忠貞なる主の名の街・マカオ」の意味)であった。

室町時代後期から江戸時代初期の日本においては、「天川(あまかわ)」と呼ばれた。
歴史詳細は「マカオの歴史」および「ポルトガル領マカオ」を参照
明朝以前

珠江と南シナ海の境目に位置するマカオは、もともと、漁民や蛋民と呼ばれた水上居民を中心とする漁業の村であった。その後、東南アジアなどとの通商が始まると、貿易の町として栄えてきた。
ポルトガル人の居留地

1513年に、当時世界有数の海洋大国として世界各地にその覇権を誇っていたポルトガル人が中国に初渡来し、王朝との交易を開始した。海禁下の明が1522年屯門島を拠点とするポルトガル船を駆逐し、広州交易を禁止した。ただしこの時期のマカオの領有権はポルトガルではなく明にあり、明がマカオに税関を設置するなど主権を有していた。

しかし、明の嘉靖年間(1522年 - 1566年)には、マカオ周辺海域での海賊の横行が甚だしく、ポルトガル艦隊総司令官のレオネル・デ・ソウザが海賊退治に協力した。1557年、その褒美としてに明からマカオへの居留が認められた。明が終焉に至る17世紀中頃までマカオを中継地としたポルトガル交易が東アジア周辺国で広がりをみせた。ポルトガル人居住者は、明代から居留のための献金などの名目で交易の一部利益を上納していた。

当時における中国大陸における唯一のヨーロッパ人の居留地となった。

なお、この前後にカトリック教会宣教師イエズス会の創設メンバーの1人であるフランシスコ・ザビエルが、ポルトガル政府の支援の下、マカオを拠点に東南アジア各地でキリスト教の布教活動を行っていた。

この頃のマカオは、日本鎖国するまでは長崎との貿易で繁栄を極めた。その後、ポルトガルとスペイン同君連合となり、スペインの植民地マニラとの間にも貿易ルートが開かれ、これはオランダとのマカオの戦いを起こすことになる(南蛮貿易の歴史)。


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