マインドコントロールを行うカルト側の情報提供が進まず、脱会者と支援者の証言がもとであるとして、マインドコントロール論はデータ的に偏りがあるという主張がある[25]。 マインドコントロール論では、「解凍・変革・再凍結」のプロセスに従い信念体系が変化するとされるが、これはそもそも宗教全般でみられる宗教的回心の過程なのではないかという指摘がある[3]。宗教の入信行為に見られる自己の意識・身体感覚の変容という事象を4つの象限(世俗性・異質性・同質性・宗教性)で一般化・類型化すると、世俗性・異質性の象限にマインドコントロール・洗脳が、世俗性・同質性の象限に自己啓発セミナー等での自己開発・変性意識が、異質性・宗教性の象限に宗教的回心が、同質性・宗教性の象限に宗教的サブカルチャーによる癒しがあげられる[10]。
櫻井義秀(北海道大学教授、宗教学者)
「オウム真理教のような反社会的な宗教集団が存在し、多くの信者を動員して未曾有の犯罪をなしてしまったことを一般の人々に説明する格好の認識枠組みとして、ジャーナリズムがカルト、マインド・コントロール論にとびついたため、説得力のある議論として世論においても市民権を得るに至ったのである。」[19]。「マインド・コントロールという理論は、態度変容を遂げた人物と利害関係を持つアンチ・カルト集団が、信者の奪回・脱会を促進するという自らの行動を正当化するために用いている議論であり、立論の当初から価値中立的なものではなかった。」[19]「現代の資本主義システム社会は自身の再生産のために、消費者の欲望を喚起して需要を掘り起こすコマーシャリズムの戦略を採らざるを得ない。このような消費社会においては、情報・シンボル・記号による他者の操作が日常化しているために、個人のアイデンティティ、近代的個人という概念自体が揺さぶられている。自分がいつの聞にか誰かに操られているのではないかという感覚はそれほど特殊なものではないのかもしれない。これがマインド・コントロール論を受容する主要な要因であろう。」[26]。「1995年3月20日の地下鉄サリン事件以来、オウム真浬教信者の行動原理を説明する論理として「マインド・コントロール」という言葉がマスメディアに流行したが、言説レベルの「マインド・コントロール論」と、不法行為責任を追及するために相当因果関係を説明する議論として主張された「マインド・コントロール論」は次元を異にする。」[11]「(櫻井は)「マインド・コントロール論」による入信の説明は、宗教社会学の議論からは認めることができないと年来主張してきたが、「マインド・コントロール」という社会的告発に相当する宗教集団がひきおこした社会問題が存在していることは認めてきた」[11]
大田俊寛(宗教学者)
「オウム問題とは、「教団が無垢な一般人をマインド・コントロールして入信させた」「教祖である麻原彰晃が信者たちをマインド・コントロールしてテロを遂行させた」という単純な構図で分析され得るようなものではまったくなく、管見の限りでは、マインド・コントロール論を用いてオウムという現象を一貫して説明し得たような著作や論文も存在しない。」[3]「マインド・コントロール自体は良くも悪くもない、カルトがその技術を「悪用」していることが問題だ、と主張されるが、もしそうなら、カルト問題にあえてマインド・コントロール論を持ち出す意義自体が消滅する。」[3]「社会心理学が指摘したように、近代の社会システムにおいて人間は、受動的・依存的になりやすい。とはいえ、「人間が集団の力や場の力に支配され、あたかもロボットのように精神を完全にコントロールされてしまう」というのは、明らかに現実離れした極論。 本来われわれが目標とすべきは、近代の人間が受動的・依存的になりやすいという事実を認めた上で、そこから脱却する方途を見出すことであったはず。そのためには、周囲からいかなる影響を受けようとも、最終的には自ら考え、自ら決断し、自ら責任を取らなければならないという、主体性の原理の重要性を強調し続けなければならないし、同時に、健全な主体性を発揮するために必要とされる幅広い知識を身に付ける努力を怠ってはならないだろう。」[3]
論点
信教の自由の問題