マインツ
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当時マインツを訪れた人の記録には、この「非常に大きな都市」に「東洋の東のはずれにのみ産出する香辛料」が見られることに驚嘆する記述がある[22]。一方、12世紀末頃、マインツ産の毛織物がヴェネツィアにまで来ている[23]。13世紀以降、諸都市は都市同盟として自己を主張する。その目標は、平和、とりわけ商業の安全確保であり、出現しつつある領邦君主の圧迫からの保護であった。その最も有名なものが1254年ライン都市同盟(Rheinischer Stadtebund)で、マインツ、ヴォルムスオッペンハイムが原動力となった。提唱者はマインツの市民で遠隔地商人であるアーノルト・ヴァルポットである[24]。翌年までに60以上の都市、諸侯などを含む都市同盟に発展した。

1244年都市マインツは、ローマ王コンラート4世と対立するマインツ大司教(エップシュタインのジークフリート3世)から大幅な都市特権を認められた[25]

14世紀初め、マインツの約120ヘクタールの市壁内の人口は20000-25000人にまで増加したと推計されている[26]

1331年には帝国自由都市(Freie Stadt des Reiches)となった[27]

マインツには「すでに9世紀から11世紀にかけて神聖ローマ帝国において最も重要なユダヤ人共同体が存在していた」[28]ユダヤ人の共同体は10世紀に急成長したが、1096年には第1回十字軍との関連で最初の暴力行為が発生した。「ユダヤ人社会の富に目がくらんで、ライン川を下流へ向かって進む熱狂した大衆が」各地でユダヤ人から略奪し、殺害したが、それはマインツでも行われた[29]。「マインツでは改宗を拒否した1000人以上のユダヤ人が十字軍兵士の犠牲となった」[30]

ベルギーのブリュージュ等に現存する旧居が世界遺産に登録されていることからも知られているベギン会は俗人と同じように生活し、戒律による共住生活を送ることのない修道士・修道女の集まりであったが、13世紀前半にはマインツ地方にもベギン会修道女がいたことが証明されている[31]
近世・それ以後

宗教改革に際して、ドイツ語聖書の出版[32]を可能にした技術である活版印刷術は、この街の出身者ヨハネス・グーテンベルクの発明とされる。16世紀前半、マインツ大司教アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク (Albrecht von Brandenburg 1490-1545; 選帝侯 1514-1545) のもとで文化活動が興隆した[33]。アルブレヒトは大司教位就任の際、多額の金額を教皇に支払ったが、それはフッガー家からの借金によるものだった。彼はその大金の返済を贖宥状の利益によって果たそうとし、宗教改革の引き金を引くことになる[34]。因みに、大聖堂の脇にあるMarktbrunnen(「市場の噴水」)はアルブレヒト・フォン・ブランデンブルクにより、パヴィアの戦いでの神聖ローマ皇帝カール5世のフランス王フランソワ1世に対する勝利と農民戦争の鎮圧を記念して1525年に建てられたものである[35]

17世紀になると三十年戦争大同盟戦争などで荒廃した。

フランス革命が起きると、マインツは大きな影響を被る。まずフランスから大勢の亡命貴族が流れ込む。マインツ大司教は彼らを歓待し、マインツは反革命派の拠点になる。オーストリア皇帝やプロイセン国王がマインツに会して作戦を練り連合軍はフランスに進軍するがヴァルミーの会戦で敗走。勝利したフランス軍がドイツに侵攻し、1792年10月マインツを占領する。臨時政府と革命議会「ライン公会」(Der Rheinisch-deutsche Nationalkonvent)が置かれる。公会は1793年3月17日「マインツ共和国」(Republik Mainz)の樹立を宣言し、3月21日には、副議長ゲオルク・フォルスター提出の動議を採択しフランスへの合併を決議する。フランスの国民公会はこれを承認してマインツはフランス領であると宣言される。その後マインツはプロイセン・オーストリア連合軍に包囲され開城(1793年7月)となり、プロイセン領に編入される[36]

1798年から1814年にかけてのフランスによる占領の後、1816年にヘッセン・ダルムシュタット(Hessen-Darmstadt)に編入[37]

1834年7月、ドイツ連邦加盟諸国はメッテルニヒ主導の60か条からなるウィーン秘密協定を結んだ。これにより、マインツを本部とする諜報組織網が編成された[38]

1930年、連合国によるラインラント占領の終結を機に、ユダヤ系商人を両親に持つ彫刻家ベンノ・エルカーン(Benno Elkan; 1877-1960)制作による≪解放の記念碑≫の除幕式がマインツのシラー広場で催されたが、フランス軍がマインツから去り、町でユダヤ人排斥運動が盛んになると、1933年マインツ市長代理はこの記念碑を撤去させた[39]

第二次世界大戦終了後は再度フランスに占領される。この際にライン川右岸をアメリカ占領区域、ライン川左岸をフランス占領区域としたため、ライン川右岸の地区(Kastel地区など)はマインツから切り離されることになった。ラインラント=プファルツ州成立の際もこの境界を引き継いだため、当該地域は現在でも切り離されたままである。ラインラント=プファルツ州成立時、暫定的な州都はコブレンツに置かれたが、1950年5月16日に州議会と州政府がマインツに移転して州都となり、地域の中心都市に返り咲いた。
文化マインツ大聖堂

ロマネスク様式のマインツ大聖堂(de:Mainzer Dom)は、ケルントリーアと並んで有名な大聖堂である。シュパイアー、ヴォルムスの大聖堂ともにライン川上流地域ロマネスク様式宗教建築の最高傑作(Hohepunkt der romanischen Sakralbaukunst am Oberrhein)とされる[40]

ルネサンスの3大発明の1つである活版印刷を発明したヨハネス・グーテンベルクの生誕地であり、グーテンベルク博物館では、グーテンベルク自らが印刷したとされる世界最古の活版印刷である聖書などが展示されている。


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