マイケル・クライトン
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子供のころから文章を書くのが好きで、14歳の時にはニューヨーク・タイムズの旅行関連のコラムに文章が採用されたことがある[2]。そのころから作家を志していた。1960年にハーバード大学ハーバード・カレッジに入学[2]。そこで、彼の作風を批判して異常に低い点をつける文学の教授に出会い、ある実験を試みることにした。彼はその疑惑を他の教授に伝えた上で、ジョージ・オーウェルの作品を故意に盗用したレポートを問題の教授に提出した。するとその教授は B- の評価をつけてレポートを返したという[7]。こうした問題もあって、クライトンは英文学から自然人類学に転向し、そちらで1964年に学士号を取得した[8]。1965年にはケンブリッジ大学人類学の客員講師を務めたこともある。

その後ハーバード・メディカルスクールに入学し、同時に作家活動を開始した。その頃使ったペンネームがジョン・ラング(John Lange)とジェフリー・ハドソン(Jeffery Hudson)である。"Lange"はドイツ語の姓で"long"を意味する。ジェフリー・ハドソンはヘンリエッタ・マリア王妃に仕えた有名な小人である。どちらもクライトンの背が非常に高いことから発想したペンネームだった。『インナー・トラヴェルズ』の中で、彼が作者と知らずに『アンドロメダ病原体』(この作品はマイケル・クライトン名義で出版)の医学的間違いについてドクターたちが話していたというエピソードを語っている。ハドソン名義で出版した『緊急の場合は』で1969年のMWA賞を受賞。また、弟のダグラスとDealingという小説を合作し、マイケル・ダグラス(Michael Douglas)名義で出版した。その本の裏表紙には母親が撮影した幼いころの兄弟の写真を使っていた。

クライトンは1969年に医学博士号を取得してハーバードを卒業し、1969年から1970年までカリフォルニア州ラホヤソーク研究所で研究生として研究を続けた。ハーバードで彼は「病は気から」が真実であると確信するようになった。『インナー・トラヴェルズ』で「我々は自ら病気になる。どんな病気も全てその本人に直接の責任がある」と書いている[9]。その後オーラスプーン曲げ透視といった事柄も信じるようになった[9]
作家としての経歴
小説

作家デビュー作は『華麗なる賭け』で、1966年にジョン・ラング名義で出版された。コスタ・ブラバの隔絶されたホテルでの強盗事件の顛末を描いた215ページのペーパーバックである。強盗計画にクリティカルパス法のコンピュータプログラムを使うが、予測不能の事象が発生する。翌年『殺人グランプリ』を出版(1965年に執筆したものでこちらが処女作)。美男子の弁護士を主人公とする話で、ニースで暗殺者に間違われ危機に陥るというストーリーである。1968年には『ファラオ復活』と『緊急の場合は』を出版。『ファラオ復活』はエジプト学者を主人公とし、ヒエログリフを解読して未知のファラオの墓の場所を知るという話である。一方『緊急の場合は』はボストン病理学者を主人公とする医療スリラーで、友人の産科医が不正な人工妊娠中絶を行い、若い女性を死なせた事件を追う話である。この作品はクライトンのターニングポイントとなった。これ以降、テクノロジーが重要な主題になっていく。本作で1969年のアメリカ探偵作家クラブエドガー賞 長編賞を受賞した。

1969年には3作品を出版した。まず『生存率ゼロ』はアメリカ人放射線医が休暇でスペインに滞在中、貴重な美術品を捜しているギャング間の殺人的抗争に巻き込まれる話である。次は『アンドロメダ病原体』で、この作品でベストセラー作家として認識されるようになった。致死性の地球外微生物を研究する科学者チームを描いた小説で、この微生物に感染すると血が固まり2分で死にいたる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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