ポール・ヴァレリー
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[1]大学を卒業すると文学で身を立てようとパリに出て、ルイスの誘いでマラルメの毎週火曜の集まりに参加する。
文学的沈黙

1892年9月から11月、母方の親戚の住むジェノヴァに滞在した。この頃詩人としての才能を疑い、文学的な営みに対して激しい嫌悪を抱くに至ったヴァレリーは次第に文学から遠ざかった。そして片思いの恋慕など、雑多な思考を切り捨て、知性のみを崇拝することを決意した。この決意はジェノバ滞在中の記録的な嵐があった晩と同時期とされる為、「ジェノバの夜」と呼ばれている。そして1894年から『カイエ』(手帖)と呼ばれる公表を前提としない思索の記録をつづり始め、その量は膨大な量(およそ2万6千ページ)となった。1895年に評論『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』を発表、1896年に小説『テスト氏との夜会』を発表の後、『カイエ』の活動を基軸とした20年に及ぶ文学的沈黙期に入る。

1896年にロンドンに滞在した際に、マラルメから紹介されていた詩人のウィリアム・ヘンリーと会い、その主催している雑誌『ザ・ニュー・レヴュー』に載ったドイツ産業のイギリス(大英帝国)への圧迫に関する論文について、哲学的結論をフランス語で書いて欲しいと依頼され、当時「方法(methode)」について関心を持っていたことから、「ドイツ的制覇(La Conquete allemande)」を執筆し、1897年に掲載された。これは1915年にフランスの雑誌に再録され、1924年に「方法的制覇(Une Conquete methodique)」と改題されて刊行された。この論文では、ドイツ、イタリア、日本などの後発の国家の繁栄の方法について述べており、のちの枢軸国を示唆していたとも言われる[2]『魂とダンス』(1921年)

ユイスマンスの勧めで1897年から1900年まで陸軍省砲兵隊に勤務。1898年にはマラルメの死に大きな悲しみを抱いた。ルノワールドガ印象派画家との親交もあり、1900年に女流画家ベルト・モリゾの姪ジャニ・ゴビヤールと結婚し、ベルトの一人娘ジュリー・マネらが暮らすパッシー(パリ16区)の同一建物に亡くなる1945年まで居住した。またアヴァス通信社のエドワール・ルベー社長の私設秘書となり生計を立てるようになる。

1913年にジッドに請われて旧作の詩をまとめるかたわらで、「若きパルク」その後いくつかの詩を書き、1917年4月「若きパルク」をNRF誌上で発表し、一躍名声を勝ち得る。また「海辺の墓地(Le Cimetiere marin)」では当時十二音綴(アレクサンドラン)に比べて人気の下がっていた「十綴音(デカシラーブ)」を用いたり、各節6行という詩型を用いたりしており、1920年にNRFより刊行されて高い評価を得た。1921年には『コネッサンス』誌で現代七大詩人に選出。
文筆活動fr:Paule Gobillard画「ポール・ヴァレリー夫人と息子クロード(1910年)

1919年にロンドンの週刊誌『アシニーアム』誌に「第一の手紙(The spiritual crisis)」及び「第二の手紙(The intellectual crisis)」と題する、ヨーロッパの精神史について英文で発表。このフランス語原文が『NRF』誌巻頭に掲載された際に「精神の危機(La Cries de l’Esprit)」の表題が付けられた。1922年11月15日にチューリッヒ大学で行われた「精神の危機」と題された講演は有名となり、1924年に「精神の危機」が評論集『ヴァリエテ T』に収録された際に、講演の抜粋が「付記(あるいはヨーロッパ人)(Note(ou L’EUROPEEN))」として組み込まれた。このチューリッヒでヴァレリーはリルケと会うことを期待していたが、リルケの金策の都合でかなわず、ヴァレリーに果物籠を差し入れをした。[2]

詩作『ユウパリノス』(1921年)『魅惑』(1922年)で名声は外国にまで広がり、また1922年に雇い主のルベーが死去し、文人としての生活に入った。1923年にイギリス、ベルギー、スペイン、イタリアに招かれて講演を行う。その後もヨーロッパ各地の講演に招かれ、多くの発表した文集が刊行、翻訳された。1924年にアナトール・フランスの死去により後任としてフランス・ペンクラブの会長となり、翌年にはアカデミー・フランセーズ会員に選出される。

1928年、ジュネーブでの国際連盟知的協力会議の議長を務める。中国の作家盛成が1928年にパリで「我が母」原稿を書いた時には、ヴァレリーが序文(のち「東洋と西洋」)を書いて出版社を紹介した[2]。1930年、パリで開催されたギリシャ独立100年祭でギリシャから勳章を贈られる。1931年、パリで開催された国際ペンクラブ大会議長を務め、またオペラ座にてアルテュール・オネゲル作曲の「アンフィオン(Amphion)」がルビンシュタイン・バレエ団により上演された。1933年、地中海中央研究所所長就任、知的協力委員会にてヨーロッパ研究連盟設立の常任議長に選ばれる。1934年、ドラマ「セミラミス(Semiramis)」がオペラ座で上演。「アンフィオン」公演(1941年再演)

1936年コレージュ・ド・フランス教授に選出され、翌年から詩学講座を担当する。数多くの執筆依頼や講演をこなし、フランスの代表的知性と謳われ、第三共和政の詩人としてその名を確固たるものしていく。第二次世界大戦開戦で南仏に逃れたが、1940年秋からドイツ軍占領後のヴィシー政権下のパリに戻り、最後の著作『わがファウスト』の執筆、コレージュ・ド・フランスでの講義を続けるが、政権には批判的であり、地中海中央研究所所長を解任される。1942年には『邪念その他』の用紙配給をドイツ軍に一時差し止められた。1943年には文学者愛国戦線に参加、また自身の水彩画展を開く。パリ解放後の1945年に地中海中央研究所所長再任。

1945年5月に潰瘍で病床に就き7月20日死去。葬儀はサントノレ・ティエリー教会にて行われ、翌日ドゴールの要請でトロカデロ広場にて、戦後フランス第一号の国葬式典が行われた。遺骨は故郷セットの墓地に葬られ、墓石には「海辺の墓地」の一節が刻まれている[3]。神々の静寂の上に 長く視線を投げて
おお 思索の後の心地よいこの返礼

ジッドの尽力により、1930年から逝去した1945年にかけて、断続的にほぼ毎年ノーベル文学賞候補としてノミネートされたが[4]、受賞はかなわなかった。


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