ポール・ヴァレリー
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この論文では、ドイツ、イタリア、日本などの後発の国家の繁栄の方法について述べており、のちの枢軸国を示唆していたとも言われる[2]『魂とダンス』(1921年)

ユイスマンスの勧めで1897年から1900年まで陸軍省砲兵隊に勤務。1898年にはマラルメの死に大きな悲しみを抱いた。ルノワールドガ印象派画家との親交もあり、1900年に女流画家ベルト・モリゾの姪ジャニ・ゴビヤールと結婚し、ベルトの一人娘ジュリー・マネらが暮らすパッシー(パリ16区)の同一建物に亡くなる1945年まで居住した。またアヴァス通信社のエドワール・ルベー社長の私設秘書となり生計を立てるようになる。

1913年にジッドに請われて旧作の詩をまとめるかたわらで、「若きパルク」その後いくつかの詩を書き、1917年4月「若きパルク」をNRF誌上で発表し、一躍名声を勝ち得る。また「海辺の墓地(Le Cimetiere marin)」では当時十二音綴(アレクサンドラン)に比べて人気の下がっていた「十綴音(デカシラーブ)」を用いたり、各節6行という詩型を用いたりしており、1920年にNRFより刊行されて高い評価を得た。1921年には『コネッサンス』誌で現代七大詩人に選出。
文筆活動fr:Paule Gobillard画「ポール・ヴァレリー夫人と息子クロード(1910年)

1919年にロンドンの週刊誌『アシニーアム』誌に「第一の手紙(The spiritual crisis)」及び「第二の手紙(The intellectual crisis)」と題する、ヨーロッパの精神史について英文で発表。このフランス語原文が『NRF』誌巻頭に掲載された際に「精神の危機(La Cries de l’Esprit)」の表題が付けられた。1922年11月15日にチューリッヒ大学で行われた「精神の危機」と題された講演は有名となり、1924年に「精神の危機」が評論集『ヴァリエテ T』に収録された際に、講演の抜粋が「付記(あるいはヨーロッパ人)(Note(ou L’EUROPEEN))」として組み込まれた。このチューリッヒでヴァレリーはリルケと会うことを期待していたが、リルケの金策の都合でかなわず、ヴァレリーに果物籠を差し入れをした。[2]

詩作『ユウパリノス』(1921年)『魅惑』(1922年)で名声は外国にまで広がり、また1922年に雇い主のルベーが死去し、文人としての生活に入った。1923年にイギリス、ベルギー、スペイン、イタリアに招かれて講演を行う。その後もヨーロッパ各地の講演に招かれ、多くの発表した文集が刊行、翻訳された。1924年にアナトール・フランスの死去により後任としてフランス・ペンクラブの会長となり、翌年にはアカデミー・フランセーズ会員に選出される。

1928年、ジュネーブでの国際連盟知的協力会議の議長を務める。中国の作家盛成が1928年にパリで「我が母」原稿を書いた時には、ヴァレリーが序文(のち「東洋と西洋」)を書いて出版社を紹介した[2]。1930年、パリで開催されたギリシャ独立100年祭でギリシャから勳章を贈られる。1931年、パリで開催された国際ペンクラブ大会議長を務め、またオペラ座にてアルテュール・オネゲル作曲の「アンフィオン(Amphion)」がルビンシュタイン・バレエ団により上演された。1933年、地中海中央研究所所長就任、知的協力委員会にてヨーロッパ研究連盟設立の常任議長に選ばれる。1934年、ドラマ「セミラミス(Semiramis)」がオペラ座で上演。「アンフィオン」公演(1941年再演)

1936年コレージュ・ド・フランス教授に選出され、翌年から詩学講座を担当する。数多くの執筆依頼や講演をこなし、フランスの代表的知性と謳われ、第三共和政の詩人としてその名を確固たるものしていく。第二次世界大戦開戦で南仏に逃れたが、1940年秋からドイツ軍占領後のヴィシー政権下のパリに戻り、最後の著作『わがファウスト』の執筆、コレージュ・ド・フランスでの講義を続けるが、政権には批判的であり、地中海中央研究所所長を解任される。1942年には『邪念その他』の用紙配給をドイツ軍に一時差し止められた。1943年には文学者愛国戦線に参加、また自身の水彩画展を開く。パリ解放後の1945年に地中海中央研究所所長再任。

1945年5月に潰瘍で病床に就き7月20日死去。葬儀はサントノレ・ティエリー教会にて行われ、翌日ドゴールの要請でトロカデロ広場にて、戦後フランス第一号の国葬式典が行われた。遺骨は故郷セットの墓地に葬られ、墓石には「海辺の墓地」の一節が刻まれている[3]。神々の静寂の上に 長く視線を投げて
おお 思索の後の心地よいこの返礼

ジッドの尽力により、1930年から逝去した1945年にかけて、断続的にほぼ毎年ノーベル文学賞候補としてノミネートされたが[4]、受賞はかなわなかった。戯曲『わがファウスト』は全4幕のうち3幕までで未完、同じく戯曲『孤独者』も3分の2までで未完となっている。

モンペリエ大学の法学部出身であり、現在のモンペリエ第3大学(文学部)には彼の名前が冠せられている。8歳年上の兄ジュールは同大学法学部教授であり、後に総長となっている。
日本での受容

日本では、アルベルト・アインシュタイン相対性理論をいちはやく理解した詩人として知られるようになった。小林秀雄訳「テスト氏」が早くから読まれ、堀口大學『月下の一群』は、巻頭にヴァレリーの詩6編を訳出し『文学雑考』刊行時には、ヴァレリー宛に献本、書簡のやり取りをしている[5]

戦前(昭和初期)より佐藤正彰河盛好蔵吉田健一らが訳し、創業間もない筑摩書房で「全集」刊行を開始したが、1度目は戦局の悪化で、2度目は戦後の出版事情で未完となった。

『ヴァレリー全集』は1960年代に、佐藤正彰・鈴木信太郎らの編集により出版完結、新装版・増補版も刊行された。21世紀に入り清水徹や恒川邦夫らによる新訳が刊行された。

堀辰雄の中編小説『風立ちぬ』冒頭に、堀自身が訳したヴァレリーの詩『海辺の墓地』の一節「風立ちぬ、いざ生きめやも(Le vent se leve, il faut tenter de vivre.)」が引用されており、また小説の題名にも使われている。
著作
詩集

1891-93年の作品を収めた『舊詩帖』、長編詩『若きパルク』、1917-22年の作品を収めた『魅惑』があり、これらをまとめた『ポール・ヴァレリー詩集』が1929年に刊行された。[3]

詩人としてはマラルメに傾倒し、ボードレール、ジョゼ・マリア・ド・エレディア、ヴェルレーヌ、ランボーに多くを学び、音楽性に才能を示したが、古典的伝統的形式により詩作を行い[6]象徴主義の詩人とはみなされておらず、「(象徴派の)複雑さからヴァレリイは綺麗に洗はれている」「ヴァレリイの世界は象徴派のそれのように平易ではない」(石川淳[7])とも評される。詩論においてはマラルメの実験の理論化を試み、近代詩学を創設するものとも言われる[6]

『若きパルク』La Jeune Parque 1917年

『海辺の墓地』Le Cimetiere marin 1920年

『舊(旧)詩帖』Album des vers anciens 1920年

『魅惑』Charmes 1922年

小説その他『カイエ』『文学』などのアフォリズム集、『ヴァリエテ』は、各種時評・講演筆記 他の小文で編集され5冊刊行。

『カイエ B』Cahier B 1910年

『テスト氏との一夜』La Soiree avec monsieur Teste 1919年

『ダ・ヴィンチ論』Introduction a la methode de Leonard de Vinci 1919年

『魂とダンス』L’Ame et la danse 1923年

『ヴァリエテ』Variete 1924年

『ロンブ』Rhumbs 1925年

『ルイス宛の十五の書簡』1925年

『文学』La Litterature 1929年

『ヴァリエテ U』Variete II 1929年

『モラリテ』Moralites 1931年

『現代世界の考察』Regards sur le monde actuel 1931年、文明批評

『固定観念』L’Idee fixe 1932年

『ヴァリエテ V』Variete III 1936年

『ドガ・ダンス・デッサン』Degas, danse, dessin 1936年

『象徴主義の存在』Existance du Symbolisme 1938年

『ヴァリエテ W』Variete IV 1938年

『メランジュ』Melange 1939年

『テル・ケル』Tel quel 1941年

『邪念その他』Mauvaises pensees et autres 1942年

『ヴァリエテ X』Variete V 1944年

『わがファウスト』Mon Faust 1946年、最晩年の戯曲作品

主な日本語訳

『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』(1895年)

『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』(山田九朗訳、
岩波文庫、復刊2017年)

『レオナルド・ダ・ヴィンチ論』(塚本昌則編訳、ちくま学芸文庫、2013年)[8]


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