ポール・ワトソン
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この団体は後にグリーンピースへと発展していった[7][5]。ワトソンは1971年「グリーンピース2号(Greenpeace Too!)」の船上員となった後[8]1972年には同組織の「アストラル号(Astral)」の船長を務めた[5]。その後、1970年代半ばまで、グリーンピースで働くこととなるが、1975年の6月、ソ連の捕鯨妨害活動の最中、彼の人生を変える出来事が起こったらしい[9] 。なお、グリーンピースはワトソンを「初期の影響を持つメンバーではあったが、彼の主張とは異なり、グリーンピースの創立者ではなかった」としている[10]。ポール・ワトソンは、しかし、依然として自分がグリーンピース及びグリーンピース・インターナショナル創立者であったと主張し続けている[11][12][13]

1977年、賛成11票、反対1票(この1票はワトソン自身によるものである)[14][15] でワトソンはグリーンピースの理事会から降ろされた。それは、彼の目立ちたがりで傲慢な性格により組織内の調和が乱れるため、次期代表のパトリック・ムーアに反対したため、そしてニューファンドランド州での抗議活動中に取った彼の行動(アザラシ狩り漁師から棍棒を取り上げ、アザラシの生皮と共に海へ投げ捨てた)がグリーンピースの理念に反するのにもかかわらず、彼がそれを謝罪しようとしないため、という3つの理由によるものであった[16]。非暴力的抗議活動に限界を感じたワトソンは、グリーンピースを離脱。この行動は、グリーンピースから「反逆」として受け止められた[17][18]
シーシェパード時代詳細は「シーシェパード」を参照

1977年、グリーンピースを脱退したワトソンは、シーシェパードの前身となる「アースフォース(Earth Force Society)」を結成した[19]1978年12月、英国の作家で動物基金の代表者でもあるクリーブランド・アモリー(Cleveland Amory)から支援を得て、シーシェパード号を購入、本格的な活動を開始した[20]1979年3月、カナダセントローレンス湾においてアザラシ狩船に対して、シーシェパードとして初の抗議活動を行った[21][22]。同年6月、海賊捕鯨船シエラ号(Sierra)に[23]、船首に100トンのコンクリート塊を取り付けたシーシェパード号で体当たりし、航行不能に陥らせた[24]。この事件の後、ワトソンは自らをキャプテン(船長)と呼ぶようになったが、船長の資格を得たことはない[25]。ワトソンらの抗議行動は、捕鯨船の甲板へ物を投げる、異物をスクリューに絡ませようとする、捕鯨船への侵入[26]アイスランド近辺における自沈など[27]、過激なものであり、シーシェパードはすぐに最も攻撃的な環境保護団体の一つとして知られるようになった。1993年に著した著書で、ワトソンは地球防衛戦士の教えとして、派手派手しいドラマを演出し相手を騙しなさい、信頼を得るために犠牲者のふりをしなさい、などと記した[28][29]。シーシェパードの反捕鯨活動は現在アニマルプラネットで放送されているドキュメンタリー番組『クジラ戦争(Whale Wars)』として注目を集めている。

2012年3月、クロマグロ漁師から賄賂をもらっているとワトソンから非難されたマルタ首相ローレンス・ゴンジは、国会答弁でワトソンを名誉毀損で訴えると断言した[30]

同年5月、2002年に映画『シャークウォーター(Sharkwater)』を撮影した際にグアテマラ沖でコスタリカのサメ漁船の航行を妨害した容疑でフランクフルトにて逮捕された。身柄はコスタリカに引き渡される予定であったが[31]、7月、保釈中にドイツから出国して所在不明となり、コスタリカの要請を受けた国際刑事警察機構(ICPO)は、ワトソンに対する国際指名手配を情報提供などを求める「青手配」から、身柄引き渡しのために逮捕を求める「赤手配」に格上げした[4][32]。またICPOは、同年9月に、ポール・ワトソンの日本の調査捕鯨妨害の件についても日本の海上保安庁から要請を受けて「赤手配」をしている(後述)。

その後、約1年3ヶ月にわたり南太平洋上を航行していたとされる。


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