12月8日、レノンがニューヨークで射殺される事件が発生する。ビートルズの黄金時代を共に築いた仲間の訃報にマッカートニーは大きな衝撃を受け、2か月以上自宅に引き籠って過ごした。翌年、音楽活動を再開させたマッカートニーは、プロデューサーのジョージ・マーティンの進言で腕利きのスタジオ・ミュージシャンを起用し、エリック・スチュワートやリンゴ・スターなどの有名ミュージシャンと共演、カール・パーキンスやスティーヴィー・ワンダーなどとはデュエットも行った。1982年、このセッションでレコーディングされたシングル「エボニー・アンド・アイボリー」とアルバム『タッグ・オブ・ウォー』を発表、ともに全米、全英で1位を獲得した。このアルバムにはレノンに対する追悼曲である「ヒア・トゥデイ」が収録されており、現在でもしばしば演奏されている。
同年、マイケル・ジャクソンとのデュエット曲「ガール・イズ・マイン」を発表。マイケルとは1983年発表のアルバム『パイプス・オブ・ピース』でも「セイ・セイ・セイ」でデュエットしており、この曲も全米で1位を獲得した。
1984年には「ひとりぽっちのロンリー・ナイト」を発表し、全英2位、全米6位とヒットした。さらに自らが脚本・音楽を手がけ、主演した初の映画作品『ヤァ! ブロード・ストリート』を制作・公開。ビートルズナンバーも収録されたサントラ盤『ヤァ! ブロード・ストリート』は成功を収めたが、対照的に映画の内容に関しては酷評され、興行的にも失敗に終わった。
1985年、有名なプロデューサーのヒュー・パジャム、フィル・ラモーンの協力を得て制作した、アメリカ映画『スパイ・ライク・アス』の主題歌『スパイズ・ライク・アス』が全米第7位のヒットになった。同年7月13日にアフリカ難民救済を目的として行われた、20世紀最大のチャリティー・コンサート「ライヴエイド」(LIVE AID)では「ヘイ・ジュード」でイギリス・ステージのトリを飾った。
1986年、ヒュー・パジャムをプロデューサーに起用した『プレス・トゥ・プレイ』はチャート順位・売上共に不振に終わり、評論家からの評判も芳しくなかった。続いて発売される予定であったフィル・ラモーンがプロデュースした通称「ザ・ロスト・ペパーランド・アルバム」は完成を目前にしてマッカートニーとラモーンの意見が対立、頓挫してしまう。この頃を境に以前のような全米トップ10に入るような大きなヒット曲には恵まれなくなる[注釈 10]。一方で少年時代に慣れ親しんだロックンロールのスタンダード・ナンバーを歌った初のカヴァー集『バック・イン・ザ・U.S.S.R.』を制作し、1988年にソ連限定で発表した。
1989年、シングル「マイ・ブレイヴ・フェイス」はエルビス・コステロとの共作の話題性も手伝って久々のヒット、アルバム『フラワーズ・イン・ザ・ダート』は全世界で250万枚以上の売上を記録した。9月、マッカートニー夫妻はアルバムに参加したスタジオ・ミュージシャン4人とともに10年ぶりの本格的な公演活動を開始する。翌年にかけて行われた、のちに『ゲット・バック・ツアー』と称されたこのワールド・ツアーでは、彼が長年演奏を躊躇していたビートルズ時代の作品がセットリストの約半分を占めた。 1990年3月にはビートルズとしての来日以来、24年ぶりの日本公演が実現。ワールド・ツアー終盤には1990年4月21日のブラジル、リオデジャネイロのマラカナン・スタジアム公演では18万人以上の観客を集め、有料興行の観客動員数の世界最高記録を更新した。このツアーでの演奏はライブアルバム『ポール・マッカートニー・ライブ!!』として発売され、映像は映画『ゲット・バック
1990年代
1991年1月、MTVアンプラグドの収録を行い、後に『公式海賊盤』として発表される。マッカートニーはポピュラー音楽以外のジャンルにも挑戦し、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団の創立150周年を記念した初のクラシック作品『リヴァプール・オラトリオ』を上演する。