ポール・マッカートニー
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ビートルズとして1966年6月に来日し、日本武道館にて公演を行った[9]。公演が実施される前には正力松太郎の「ベートルスとかペートルスとかいう連中」発言や、細川隆元小汀利得や街宣車などの反対があったが、公演を無事に催行。ビートルズ日本公演以来、日本武道館は「日本音楽界の聖地」とも呼ばれる場合もある。
1970年代

1970年4月10日、ビートルズを脱退するというマッカートニーの意向がイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』で報じられ[注釈 6]、ビートルズは事実上解散した。その1週間後の4月17日、騒動の最中に初のソロ・アルバム『マッカートニー』を発売する。脱退の反響が巻き起こした宣伝効果は大きく、アルバムは好調な売れ行きを見せ、アメリカのビルボード誌やキャッシュボックス誌で第1位を獲得した。レノンからは「グループからの脱退宣言をアルバムの宣伝に利用した」[注釈 7]として非難され、当時の音楽メディアやロック・ファンからは酷評する声も少なくなかった。

1971年2月に発表されたシングル『アナザー・デイ』、5月に妻リンダとの連名で発表されたアルバム『ラム』にも『マッカートニー』の作風は受け継がれ、『ラム』は前作同様にヒットした。イギリスでは第1位、「ビルボード」誌では最高第2位を獲得し、トップ10内に24週間も残留したロング・セラーとなったが、評論家からは手厳しい批評を受けた。アラン・クレインにまつわる訴訟問題などで、険悪な関係に陥っていたビートルズの元メンバーの『ラム』への評価もきびしかった。このアルバムからアメリカ限定でシングル・カットされた「アンクル・アルバート?ハルセイ提督」は、1972年度のグラミー賞で最優秀アレンジメント賞を獲得した。

8月、予てよりバンドによる公演活動を目論んでいたマッカートニーは、ウイングスを結成し、12月にファースト・アルバム『ワイルド・ライフ』を発表した。詳細は「ウイングス#来歴」を参照ウイングスの公演で演奏するマッカートニー(1976年

1979年、当時の国連事務総長クルト・ヴァルトハイムの要請により、12月26日から29日にかけて行われたユニセフ主催のチャリティ公演「カンボジア難民救済コンサート」の最終日に出演。クイーンザ・クラッシュエルヴィス・コステロ&ジ・アトラクションズなどが参加した豪華な公演のトリを飾った[注釈 8]。しかし、これが、ウイングスにとって最後の公演となってしまった。
1980年代

1980年1月16日に訪日したマッカートニーは成田空港の税関で大麻取締法違反(不法所持)により現行犯逮捕され、9日間勾留された後に国外退去処分を受けた[11]。予定されていたウイングスの日本公演は全て中止となり、グループとしての活動が休止状態に陥ってしまう[注釈 9]。マッカートニーは、ソロ・アーティストとしての活動を9年ぶりに再開。10年ぶりとなるソロ名義のアルバム『マッカートニーII』と先行シングル「カミング・アップ」で成功を収めた。

12月8日、レノンがニューヨーク射殺される事件が発生する。ビートルズの黄金時代を共に築いた仲間の訃報にマッカートニーは大きな衝撃を受け、2か月以上自宅に引き籠って過ごした。翌年、音楽活動を再開させたマッカートニーは、プロデューサーのジョージ・マーティンの進言で腕利きのスタジオ・ミュージシャンを起用し、エリック・スチュワートリンゴ・スターなどの有名ミュージシャンと共演、カール・パーキンススティーヴィー・ワンダーなどとはデュエットも行った。1982年、このセッションでレコーディングされたシングル「エボニー・アンド・アイボリー」とアルバム『タッグ・オブ・ウォー』を発表、ともに全米、全英で1位を獲得した。このアルバムにはレノンに対する追悼曲である「ヒア・トゥデイ」が収録されており、現在でもしばしば演奏されている。

同年、マイケル・ジャクソンとのデュエット曲「ガール・イズ・マイン」を発表。マイケルとは1983年発表のアルバム『パイプス・オブ・ピース』でも「セイ・セイ・セイ」でデュエットしており、この曲も全米で1位を獲得した。

1984年には「ひとりぽっちのロンリー・ナイト」を発表し、全英2位、全米6位とヒットした。さらに自らが脚本・音楽を手がけ、主演した初の映画作品『ヤァ! ブロード・ストリート』を制作・公開。


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