ポール・ニザン
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また、ルイ=ル=グランでは象徴派の詩人ボードレール社会主義の詩人・思想家シャルル・ペギーを耽読する一方で、王党派極右国粋主義アクシオン・フランセーズを結成したシャルル・モーラスに傾倒する教員に彼の作品を読むよう勧められ、後に一時期だが極右に関わるのは、こうした影響であったとされる[4]。このほか、リセから高等師範学校の時代にニザンが愛読した作家として、その影響が指摘されるのはジュール・ラフォルグスタンダールジャン・ジロドゥフローベールエミール・ゾラモーパッサンジョルジュ・デュアメルアンドレ・ジッドドストエフスキーイェイツプラトンゲーテヴァレリー・ラルボーデカルトシェイクスピアホメーロスポール・クローデルH・D・ソロード・スタール夫人サン=ジョン・ペルスポール・ヴァレリーと、フランスのみならず、同時代のイギリスアメリカドイツロシアの作家から古代哲学まで広範に及んでいる[5]
模索の時期高等師範学校時代のポール・ニザン(1924年頃)

さらに、『自我礼拝』三部作[注釈 1]などにより、かつては青年知識人の敬愛の的でありながら、後に極右的な思想に傾倒して批判されることになったモーリス・バレス(「バレス裁判」参照)の影響はシャルル・モーラスの影響以上に直接的であり、アクシオン・フランセーズから分離したジョルジュ・ヴァロワ(フランス語版)、バレスの息子フィリップ・バレス(フランス語版)らによって結成されたファシズム政党ル・フェソー(フランス語版)に数か月だが参加し、同名の機関誌に寄稿した[5][9][注釈 2]。また、この関連で、『ル・フェソー』誌と詩誌『アルゴノート(Argonautes、金羊毛を探す冒険に乗り出した「アルゴー船の乗組員」の意)』が合併して創刊された『フリュイ・ヴェール(Fruits Verts、緑の果実)』誌にも参加した。これは、ジッド、ジロドゥ、ジュール・ロマンへのオマージュとして創刊された雑誌で、ニザンは短編、詩篇、プルースト論などを寄稿したが、これも2号で廃刊となった[5][9][13]。同様に4号で廃刊になった若手作家・芸術家の雑誌『無題評論(La Revue sans titre)』にはサルトルとともに参加し、後の『番犬たち』に通じる風刺的・体制批判的な「メリーランド(煙草)を2箱吸いながら恋人を解剖した医学生の哀歌(La complainte du carabin qui dissequa sa petite amie en fumant deux paquets de Maryland)」などを発表した[5]

ニザンは極右への一時的な傾倒だけでなく、宗教に救いを見いだそうとしてプロテスタントへの改宗を考えたり、多くのカトリック作家が訪れたことで知られるサルト県ソレムベネディクト会修道院を訪れたり、さらには状態・神経症気味でスイスサナトリウムに入ることすら考えたりするほどであった[2][5][9]。1925年10月にはピサフィレンツェローマイタリアを「巡礼」した[2][9]

高等師範学校ではサルトルのほか、後の社会学者・哲学者のレイモン・アロン(同じ1905年生まれ)、労働運動ソビエト連邦史専門の歴史学者・マルクス主義者ジャン・ブリュア(フランス語版)[注釈 3]と同期であり、後に労働社会学(フランス語版)を提唱することになるジョルジュ・フリードマン(フランス語版)、およびマルクス主義者・翻訳家のノルベール・ギュテルマン(フランス語版)と親しかった[2]。ギュテルマンは同じ1924年に、ジョルジュ・ポリツェルアンリ・ルフェーヴルらのマルクス主義哲学者とともにソルボンヌ大学を拠点に、(詩人画家マックス・ジャコブの支援を得て)『哲学(Philosophies)』誌を創刊し、マルクス主義とフロイト精神分析の影響を受けたシュルレアリスムの若手作家ジャン・コクトールネ・クルヴェルピエール・ドリュ・ラ・ロシェルジュリアン・グリーンフィリップ・スーポーらが寄稿していたが[14][15]、ニザンはこの時期にはまだ彼ら左派知識人の活動に直接参加することはなく、活動を共にするのは1927年の共産党入党後、特にポリツェル、ルフェーヴル、ギュテルマン、作家ピエール・モランジュ(フランス語版)らが1929年に『マルクス主義評論(Revue marxiste)』誌を創刊したときからである[16]
大英帝国支配下のアデン - 共産主義への傾倒1910年頃のアデン(イエメン)

1926年9月、ニザンは突然、学業も執筆活動も中断し、政治家アントナン・ベス(フランス語版)の子息の家庭教師として、1839年以来大英帝国の支配下にあったアデン[17]アデン湾に面するイエメン共和国の港湾都市)に向かった。1927年5月まで同地に滞在することになるが、ここで目にしたのは期待した異国情緒とは裏腹に、植民者の資本主義搾取に苦しむ現地人の悲惨さであり、植民地というブルジョワ社会の縮図であった[3][9]


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