ポール・エリュアール
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1年ほどの短命な雑誌であったが、アラゴン、イサドラ・ダンカンジャン・アルプバンジャマン・ペレらが参加し[10]、第4号の表紙にピカビア作「若い娘」と題する穴が開けられるなど[11]、ダダイストの表現の場となった。
ツァラ派 vs. ブルトン派

だが、1921年には早くもトリスタン・ツァラとブルトンの対立が露わになり、他のダダイストを巻き込んで相互の溝を深めていった。同年の春に、かつてアナキスト耽美主義者として青年知識人に深甚な影響を与えた文学者モーリス・バレス極右的な政治思想に傾倒したことを批判して即興劇バレス裁判」を上演したとき、ツァラは観客の前でブルトンをバレス並みの卑劣漢扱いをした(ピカビアはこの前日にダダからの離脱を宣言していた)。1922年1月にブルトンが「現代精神の綱領決定と擁護のための」パリ会議を呼びかけたときにも、ツァラはこれを伝統への回帰だとして参加を拒否した。ブルトンは立体派未来派、そしてダダを連続的な流れとして捉え、これらを統合して、次の新しい段階へと飛躍するための場を設定しようとしていたのだが、先行するすべての文学運動を完全に否定し、まったく新しい独立した運動としてダダを捉えていたツァラには、ブルトンの発想は到底受け入れられるものではなく、結局、この企画は実現を見なかった[12]トリスタン・ツァラ(1932年)アンリ・マニュエル(フランス語版)によるアンドレ・ブルトンの肖像写真(1927年)

さらに、ブルトンは1922年3月2日に日刊紙『コメディア(フランス語版)』に「ダダ以後」と題する記事を発表し、「ダダは勇名を馳せていた時期もあるにはあったが、あとにはほとんど哀惜の情しか残さなかった。時が経つにつれて、その絶対権力と専横とがダダを耐え難いものにしてしまったからである」と、ツァラを批判した。ツァラはこれに対する応酬として『髭の生えた心臓』紙を創刊した。これは創刊号をもって終刊となったが、ツァラ派とブルトン派との対立を際立たせることになった。『髭の生えた心臓』紙に作品を掲載したツァラ派はペレ、スーポー、マルセル・デュシャン、ジョルジュ・リブモン=デセーニュ(フランス語版)、エリック・サティ、ビセンテ・ウイドブロ(フランス語版)、そしてエリュアールらであった[13]。だが、1923年7月6日にミシェル劇場で行われた「髭の生えた心臓の夕べ」はダダイスムの終焉を告げる事件となった。ツァラのほか、ブルトン、アラゴン、ペレ、ロベール・デスノス、エリュアールらが参加したこの企画で、ダダイストのピエール・ド・マッソ(フランス語版)が「ジッドは死んだ、ピカソは死んだ」と宣言文を読み上げたとき、友人のピカソを侮辱したことに腹を立てたブルトンらが舞台に飛び上がってド・マッソに殴りかかり、警察を呼ぶ騒ぎになった。既成の秩序の破壊を唱えるダダが、最後に秩序の維持にあたる公権力に訴えたのは決定的であり[14][15]、これまでツァラを支持していたエリュアールも、「髭の生えた心臓の夕べ」事件を機に彼と決別した。ツァラ派とブルトン派の根本的な違いは、やがて、すべてを破壊し、無意味化するダダイスムと、無意味や無意識を重視し、そこに新しい表現を見出そうとするシュルレアリスムの違いとして現れることになる[16]
エルンストとの出会い

エリュアールはこの間にダダの詩集『動物たちと彼らの人間たち、人間たちと彼らの動物たち』、『生活必需品と夢の結果』を発表した。1921年にマックス・エルンストに出会い、翌22年8月に彼の不法入国を助けて自宅に迎え入れ[11]、ガラとの3人の生活が始まった。エルンストは『リテラチュール』誌の同人たちを中心に大作『友人たちの集まり』を描き、1923年のアンデパンダン展に出品した。絵にはエルンスト自身のほか、エリュアール、アラゴン、ブルトン、スーポー、デスノス、ペレ、ジョルジョ・デ・キリコ、ジャン・アルプ、ジャン・ポーランルネ・クルヴェル、ガラ、そしてラファエロドストエフスキーも描かれている[17][18]
シュルレアリスム
シュルレアリスム革命

翌22年にエルンスト(画)とエリュアール(詩)の共著『不死者の不幸』が刊行された(二人はこの後、1925年にもガラに捧げる『沈黙の欠如に』を発表。エルンストは匿名でガラの画を多数掲載している)。だが、このとき、エリュアールはガラとの関係において精神的な危機に陥り、1924年3月に失踪を遂げた。7か月かけてオセアニアを旅し、10月に帰国。ブルトンに捧げる詩集『死なずに死ぬこと』を発表した。1924年は、パリ7区のグルネル通り(フランス語版)にシュルレアリスム研究所が設立され、シュルレアリスム宣言が発表された年である。とりわけ、アナトール・フランスが死去したときに共同で執筆した小冊子『死骸』は、この権威的な存在を葬り去り、乗り越えようとする最初の象徴的な行為であり、一大スキャンダルを巻き起こした[19]。エリュアールはこの小冊子に「ありきたりの老人」と題する文章を掲載した。このほか、ブルトンの「埋葬拒否」、アラゴンの「すでに死者を殴り倒したか」、スーポーの「間違い」、(後に対独協力に転向することになる)ピエール・ドリュ・ラ・ロシェルの「われわれは騙されない」などが掲載された[20]

1924年12月1日に文芸誌『シュルレアリスム革命』が創刊され、エリュアールはアラゴン、ペレ、デスノスらとともに「シュルレアリスム作品」として詩を掲載した。マン・レイの写真、デ・キリコ、エルンスト、ピカソ、アンドレ・マッソンらの画も多数掲載された。表紙には参加者全員の写真の下に「新人権宣言となるべきである」と書かれている[21]。出版社はガリマール図書(ガリマール出版社の前身)で、最初の4号はペレとピエール・ナヴィルが編集、以後はアラゴンが中心となって1929年まで5年にわたって自動記述、睡眠実験、デペイズマンコラージュ、無意識、偶然不条理などシュルレアリスムの重要なテーマをすべて取り上げ、運動の最も重要な雑誌の一つとなった[22]
共産主義への傾倒クロズリー・デ・リラ(1909年)

1925年7月2日にシュルレアリストらが(特に20世紀前半にモンパルナスの芸術家・知識人が集まるカフェとして知られていた)クロズリー・デ・リラで詩人サン=ポル=ルーのための祝宴を行った。サン=ポル=ルーはすでに64歳であったが、自動記述の手法をいち早く取り入れ、シュルレアリストに先達と仰がれた詩人である。また、後にアラゴン、デスノス、ヴェルコールらと対独抵抗運動を牽引したことでも知られる[23]。この席で、サン=ポル=ルーと同年代のデカダン派の女性作家ラシルド(フランス語版)[24]が、愛国心から「フランス人女性がドイツ人男性と結婚することは決してないだろう」と発言したとき、ミシェル・レリスが「フランス打倒、(リーフ共和国大統領の)アブド・エル・クリム万歳」と叫んで窓から飛び降りたこともシュルレアリスムを象徴する逸話として残っている[25]。実際、この頃、アンリ・バルビュスが1919年に発表した『クラルテ』[26]を契機として共産主義知識人らが起こした国際的な反戦平和運動の機関誌『クラルテ』にシュルレアリストが参加するようになり、とりわけ、リーフ戦争でフランスが1925年7月にリーフ共和国に宣戦布告してモロッコに侵攻すると、バルビュスの反戦の呼びかけに賛同したシュルレアリストと『クラルテ』誌の共産主義者がリーフ戦争反対声明に共同署名し、これを「まず革命を、そして常に革命を」と題して共産党の機関紙『リュマニテ』紙に掲載した。


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