ポーランド
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ユダヤ人は都市を築き、商業や銀行業を始め、彼らのビジネスノウハウや文学や進んだ技術や高い能力を認められ大公などの側近を務めポーランド経済の柱となり、ポーランド初のヘブライ語が印刻された硬貨の発行などに携わった[10]

ヘンリク4世(在位1289年 - 1290年)は、ドイツ系住民の支持を受けクラクフ公になった。東方植民でドイツ人の影響力が強まっていった。クラクフでは住民税と所得税の完全免除を求めるポーランド人住民たちによる暴動が起こることもあった。こういったドイツ人との分離主義的な運動に強く対抗する運動も起き、次の14世紀にはドイツ系と非ドイツ系の2勢力の反目が、ポーランド史の基軸となった。この当時のポーランド人による文書には、「連中(ドイツから来た人々のこと)はグダンスクを(訛って)ダンチヒと呼んでいる」などと書いてある。ドイツ人商工業者たちが統治を行うドイツ人王侯貴族(ドイツ騎士団など)による支配よりも、もともとのポーランドの王侯貴族による支配を選択したからである。のちにポーランドのバルト海側におけるドイツ騎士団の十字軍、そして南部におけるモンゴル襲来後のドイツ入植者の受け入れはこれらの地域の経済や文化の発展をもたらした反面、19世紀から20世紀にかけてのポーランド人とドイツ人との間の激しい民族紛争の遠因ともなった。
黄金時代名君カジミェシュ3世「大王」グルンヴァルトの戦い
ポーランド軍の農民兵がドイツ騎士団総長ウルリッヒ・フォン・ユンギンゲン(中央左の馬上の白黒の衣装の人物)を討つ瞬間ルブリン合同
ポーランド=リトアニア共和国の誕生ポーランド王国の最大版図アルベルト・ブルゼフスキ教授詳細は「ポーランド・リトアニア共和国」を参照

14世紀にはヨーロッパ大陸での反ユダヤ主義から、ポーランド国内法の宗教的・民族的寛容さから多数移住してきた。14世紀当時は、ヴワディスワフ1世の子で、軍事、外交、内政に巧みな手腕を発揮したカジミェシュ3世「大王」がポーランド王国を治めており、彼の治世にポーランドは経済的な大発展をした。1339年、ドイツ騎士団に対し、かつてポーランドの領土であったことを理由に一部の土地の返還を求め抗戦した。ルーシ族ヴァリャーグ)のハールィチ・ヴォルィーニ大公国(西部ウクライナ)を占領し領土を広めていった。また、のちに反王権的性格を表す重要な意味合いを持つ「ポーランド王国の王冠」という言葉もこのころに土地の主権を主張する時の言葉として出始めた。1355年にはマゾフシェ公ジェモヴィトが大王に対し臣従した。1364年、大王はクラクフ大学(ヤギェウォ大学)を創立し、これ以後ポーランドの学術文化が華麗に開花していく。
ヤギェウォ朝

王朝が変わり、ルートヴィクの時代に入ると王の権威は衰えた。ルートヴィク死去後の二年間の空位や立場の弱い女王がこれを更に加速させる。1385年、ポーランド女王ヤドヴィガとリトアニア大公ヨガイラ(ポーランド語名ヤギェウォ)が聖職者とバロン、シュラフタなどの意志のもと結婚し、ポーランド王国とリトアニア大公国人的同君連合をした。ポーランド=リトアニア連合を形成した(クレヴォの合同)。1399年にヤドヴィガ女王が没するとヤギェウォがポーランド王に即位し、以後ポーランド、リトアニア、ボヘミア王国およびハンガリー王国の王朝であるヤギェウォ朝がポーランドを統治することになった。1410年、ポーランド=リトアニア連合はグルンヴァルトの戦いドイツ騎士団を討った。

1414年、コンスタンツ公会議ではグルンヴァルトの戦いの戦後処理について話し合われ、会議では当時異教徒の国であったリトアニアとキリスト教徒の国であるポーランド王国が同盟して、キリスト教徒のドイツ騎士団と戦争をした点が大問題となり、これについてポーランドに対してドイツ騎士団側からの激しい非難があった。ドイツ騎士団は「異教徒と同盟してキリスト教徒のドイツ騎士団を討伐したポーランドの行動は罪であり、この罪によって、ポーランド人は地上から絶滅されるべきである」と主張した。ポーランド全権クラクフ大学校長であったパヴェウ・ヴウォトコヴィツラテン語名:パウルス・ウラディミリ)は「リトアニア人のような異教徒であっても我々キリスト教徒とまったく同じ人間である。したがって彼らは自らの政府を持つ権利(国家主権)、平和に暮らす権利(生存権)、自らの財産に対する権利(財産権)を生まれながらに保有する。よってリトアニア人がこの権利を行使し、自衛するの(自衛権)はまったく正当である」と述べた。教皇マルティヌス5世は異教徒の人権についての決定はしなかった。

1430年にリトアニア大公のヴィータウタス(ポーランド語名:ヴィトルト)が没すると、ポーランド=リトアニア連合内はよりポーランド王の権威と権限を強め、事実上ポーランド王国の支配下に入り、すべてのリトアニア貴族はポーランド語とポーランドの習慣を身につけてポーランド化していった。ただし宗教や宗派については、ある場所ではローマ・カトリック、ある場所ではプロテスタント、ある場所では正教会、ある場所(リプカ・タタール人共同体)ではイスラム教、といった具合にそれぞれの地方共同体の伝統的な宗教や宗派を守っていることが多かったとされる。巨大化した第1共和国
ポーランド王国(濃いピンク)/リトアニア(薄紫)/プロシア公領(肌色)/リヴォニア(グレー)/クールラント(薄いグレー)/エストニア(黄緑)

1440年、ドイツ騎士団領内の諸都市で、ポーランド王とプロイセン連合を結成し、ポーランド王国とプロイセン連合はドイツ騎士団との間で再び戦争となった。1466年、第二次トルンの和約によりドイツ騎士団領は敗戦した。プロイセンはポーランド王国の封土となり、ポーランド=リトアニア連合を宗主国とする属国となり、多くの政治的権限がポーランドに移された。ポーランドはこの第二次トルンの和約に基づき、ポーランド国会(セイム)への代議員を送ってポーランドを構成するすべての地域を扱う政治(いわゆる国政)に直接参加するようドイツ騎士団に命じたが、騎士団は拒否した。ヴァルミア司教の叙任をめぐって、これをポーランドのグニェズノの大司教が裁可するが、ドイツ騎士団は独自の候補を擁立して異議を申し立て騎士団側の候補者をヴァルミア司教とし、今後グニェズノ大司教が主権を握ることで和解した。名君ジグムント2世アウグスト国王ヘンリク・ヴァレジの逐電(ワルシャワ国立博物館蔵)名君ステファン・バートリ

1543年、トルン出身でクラクフ大学卒業生のミコワイ・コペルニク(ラテン語名:ニコラウス・コペルニクス)は著書『天球の回転について(De revoltionibus orbium coelestium)』を出版、地動説を提唱した。彼は父親がクラクフ公国出身のポーランド人で銅の取引業を営み、母親はドイツ人であった。母の実家のあるトルンで生まれ、父母を早く亡くしたあとは母方の叔父でヴァルミア司教のルーカス・ヴァッツェンローデ(前の段落参照)に育てられた。なお、クラクフ大学におけるコペルニクスの恩師である人気教授アルベルト・ブルゼフスキ月の軌道計算で世界的に名を挙げ、月が楕円軌道を描いていること、そして常に同じ面を地球に向けていることを指摘している。

1569年、国王ジグムント2世アウグストの幅広い尽力により、ポーランドはリトアニアを併合(ルブリン合同)してポーランド王を統一君主とする物的同君連合で制限つきながらも議会制民主主義を採る「ポーランド=リトアニア共和国」(第1共和国)となり、欧州の広大な国のひとつとして君臨した。名宰相ヤン・ザモイスキ

ジグムント2世アウグストの死後、ポーランド=リトアニア連合王国はすべてのシュラフタ(ポーランド貴族)が参加する選挙(国王自由選挙)によって国王を決定する「選挙王政」をとる貴族共和国になった。ポーランド貴族の人数は常に人口の1割を超えており、そのすべてに平等に選挙権が付与されていた。アメリカ合衆国が18世紀末に独立してからしばらくの間、選挙権を持つ者が合衆国全人口の1割に満たなかったことを考慮すると、当時のポーランド=リトアニア連合王国ではのちのアメリカ合衆国に比べ選挙権を持つ国民の割合が大きかったことになる。

1573年、すべてのシュラフタが1人1票を持つというかなり民主的な原則で行われることになったポーランドの国王自由選挙で選ばれた最初のポーランド国王はフランス王アンリ2世イタリア人の王妃カトリーヌ・ド・メディシスの息子であるフランス人ヘンリク・ヴァレジ(アンリ、のちのフランス王アンリ3世)であった。


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