ポーランド
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ソ連、チェコスロバキア東ドイツハンガリーなどの同じ東側諸国のように集団農場と個人農地は国有化された[16]1950年代から1980年代の典型的なポーランドの様子、国営商店に並ぶ市民

ポーランド政府はおもに西側諸国からの借入れを繰り返し、無計画な経済政策と国家の物財バランスに基づいた計画によって配分される体制の計画経済により急激なインフレ急騰を招き、食料・物資不足が長く続いた。1973 - 74年のオイルショックも重なり、借入れによる市場拡大や経済成長は短期間で終わる。その国内経済を補うため、さらなる借金をして、政府は1980年までに230億ドルの膨大な負債を抱える。このような状況により、闇市が盛んになり欠乏経済(英語版)を発達させ、市民によるデモ、ストライキ、暴動などが頻繁に起こった[15]。社会退廃は、生物学的環境と心身の健康上でひどい悪化を伴い死亡率は上昇した。PZPRは、高インフレや貧困な生活水準、市民の怒りと不満により再び社会的爆発の勃発を恐れた政権は、自ら統制できないシステムで困惑し、力のなさを感じた[17]。1979年6月にポーランド人ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が故国ポーランドを訪れ、マルクス・レーニン主義無神論(英語版)の政府に宗教を弾圧されていた国民は熱狂的に迎えた。1980年9月17日には独立自主管理労働組合「連帯」が結成された。ポーランドを訪問する教皇ヨハネ・パウロ2世

1981年 - 1983年、ポーランドの戒厳令の期間に政府は反政府を潰すために戒厳を導入、市民の通常の生活は劇的に制限され[18]、数千人のジャーナリストや反対勢力活動家は投獄、ほか100人[18]ほどが抹殺された。夜間外出禁止令、国境封鎖、空港閉鎖、電話回線の遮断、政府による郵便物内容検査などが執行された。軍裁判所は、偽造情報発信者達を逮捕した[19]。戒厳令後も、市民の自由権はひどく制限された。ワルシャワ大学前での「連帯」運動

軍事政権により価格は引き上げられ、深刻な経済危機となる。経済危機は、おもな食料・日用品・生活必需品・物資の配給制となり平均所得は40%下落した[20]。西洋の娯楽品の入手は非常に厳しかったが、それも一層困難化した[21]ヤルゼルスキのもと、借金は1980年までの230億ドルが400億ドルになった[22]。行政マネージメントの欠如、生産構造の悪さ、物資の欠乏は労働者のモラルを低下させ、働き盛り年代である64万人が1981年 - 1989年の間に難民となり他国へ移民した[23]。ソ連の支配する体制による抑圧に抵抗する市民による民主化運動はこの時期に拡大していった。
第三共和国レフ・ヴァウェンサ(ワレサ)第三共和制初代大統領詳細は「ポーランドの歴史(1989年?現在)」を参照

1989年6月18日、円卓会議を経て実施された総選挙(下院の35%と上院で自由選挙実施)により、ポーランド統一労働者党はほぼ潰滅状態に陥り、1989年9月7日には非共産党政府の成立によって民主化が実現し、ポーランド人民共和国と統一労働者党は潰滅した。この1989年9月7日から現在までは「第三共和国」と呼ばれる国家であり、民主共和政体を敷く民主国家時代である。

共産主義政権からの膨大な借金と経済危機がますます深刻化し、政治を不安定化させた[24]。西側諸国の機関は、すでに破産しているポーランド政府には貸付を延長しなかった。ポーランド政府は西側諸国や日本などの先進国に食糧や経済・技術支援を強く要請し国民の飢餓を逃れた。

1990年11月14日には統一ドイツとの間で国境線を最終確認する条約が交わされ(旧西ドイツは、旧東ドイツとポーランド人民共和国が1950年7月6日に交わした国境線画定条約の効力を認めていなかった)、ドイツとの領土問題は終了した。1993年、第二次世界大戦からポーランドに駐留していたロシア連邦軍(旧ソビエト連邦軍)が、ポーランドから全面撤退した。1997年には憲法の大幅な改正が行われ、行政権が大統領から首相へ大幅に委譲され、首相が政治の実権を握ることとなった。1999年、北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。

2004年5月1日、ポーランドは欧州連合(EU)に加盟した。2007年12月21日には国境審査が完全に撤廃されるシェンゲン協定に加盟し、他のシェンゲン協定加盟諸国とポーランドの間での陸路での国境審査が撤廃された。2008年3月30日には空路での国境審査が撤廃され、これでほかのシェンゲン協定加盟諸国とポーランドの間でのすべての国境審査が撤廃されたことになる。現在では、ポーランド人ならばパスポートなしでシェンゲン協定加盟国同士の往来が可能であり、シェンゲン協定加盟国に一度入国した旅行客はどのシェンゲン協定加盟国からでも国境審査なしでポーランドに自由に出入国をすることができる。レフ・カチンスキ第三共和制第4代大統領

ここまで自由民主主義国家として進んできたが、2005年、欧州連合(EU)の権限拡大に懐疑的で、経済における自国民の利益擁護と、共産主義時代から引き継がれたシステムや人事の完全撤廃を掲げた、高齢者、低学歴層、小規模農家、国営大企業の経営者や従業員からの支持の強いキリスト教民主主義カトリック保守主義政党「法と正義(PiS)」が総選挙で勝利し、農村型の大衆主義政党「自衛」、カトリックのレデンプトール会系の国民保守主義の小政党「ポーランド家族同盟」とともに保守・大衆主義連立政権を発足させた。同時に行われた大統領選挙では最大のライバルであるドナルド・トゥスク(「市民プラットフォーム」)との間で決選投票を行った、レフ・カチンスキ(「法と正義」)が当選した。

ヤロスワフ・カチンスキ率いる連立政権は政治路線をめぐってなかなか足並みがそろわず、政権運営が難航するとともに、国際社会においても欧州連合ロシアと軋轢を起こした。その後、連立政党「自衛」の党首アンジェイ・レッペルの収賄疑惑がカチンスキ首相に伝えられると、首相は政権維持を惜しまず2007年9月7日に議会を解散する。

この解散を受けて2007年10月21日に行われた総選挙では、欧州連合(EU)との関係強化、ユーロ導入に積極的で若者、高学歴層、商工民、新興企業の経営者や従業員からの支持が強い都市中道右派政党「市民プラットフォーム」が勝利を収める。一方で、大きく議席数が変化することが少ないといわれるドント方式比例代表制の選挙にもかかわらず、それまでの政権運営に失望した有権者によって「法と正義」は大幅に議席を失う。また、連立政権に参加すると急速に有権者の支持を失っていった「自衛」と「ポーランド家族同盟」といった国民保守主義大衆主義的な小政党は、この2007年選挙で議会におけるすべての議席を喪失した。

最大政党の「市民プラットフォーム」の議席は過半数(231議席)に満たなかったため、中規模専業農家の支持する農村型中道右派政党「ポーランド農民党」と連立政権を発足。首相に「市民プラットフォーム」の若い党首ドナルド・トゥスクが就任した。トゥスクは中道右派として中小企業保護政策などを打ち出す一方、対外的には宥和政策を採り、長年遺恨のあるドイツやロシアとも一定の歩み寄りも見せた[25]

2009年11月27日、「鎌と槌」や「赤い星」など共産主義のマークを禁止する法律が可決[26][27]


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