ポーランド総督府
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クラクフ(1939年11月 - 1945年)


総督
1939年 - 1945年ハンス・フランク

変遷
ポーランド侵攻1939年9月1日
設立1939年10月26日
国民解放委員会樹立宣言1944年7月22日
ヴィスワ=オーデル攻勢1945年1月17日
解体1945年1月19日

現在 ポーランド
 ウクライナ
スロバキア

ポーランドの歴史

ピャスト朝
10世紀 - 1370年 
プシェミスル朝 1300年 - 1306年
 
ポーランド・アンジュー朝 1370年 - 1399年
ヤギェウォ朝 1399年 - 1572年
ポーランド・リトアニア共和国(第1共和制) 1569年 - 1795年
ポーランド分割 1772年、1793年、1795年
ワルシャワ大公国 1807年 - 1813年
ポーランド立憲王国
1815年 - 1867年クラクフ共和国
1815年 - 1846年ポズナン大公国
1815年 - 1848年
第一次世界大戦 1914年 - 1918年
ポーランド摂政王国 1916年 - 1918年
ポーランド共和国(第2共和制) 1918年 - 1939年
第二次世界大戦 1939年 - 1945年ポーランド亡命政府
ポーランド総督府 1939年 - 1945年
ポーランド人民共和国 1952年 - 1989年
ポーランド共和国(第3共和制) 1989年 - 現在


ポーランド総督府(ポーランドそうとくふ、ドイツ語: Generalgouvernement fur die besetzten polnischen Gebiete)は、1939年9月のポーランド戦役ドイツ国防軍が占領したポーランド領のうち、ドイツ領に併合されなかった旧ポーランド領にドイツが設立した統治機関である。総督はハンス・フランクが務めた。
設立第一次世界大戦後と第二次世界大戦後のポーランドの国境線の変遷帝国大管区(緑色)と1941年のポーランド総督府(右端)

ヒトラー1939年10月8日10月12日付の指令でドイツに隣接する旧ポーランド領をドイツに併合、次の行政区画を設け、一部に帝国大管区の名称を付与した(旧ポーランドの行政区画の Voivodship をと訳し、ナチス・ドイツの Regierungsbezirk をと訳す。Regierungsbezirk はプロイセン王国に端を発する行政区画の名称で、ナチス・ドイツ時代に全国に広められた。日本語訳としては県が定訳として認知されている)。

ヴァルテラント帝国大管区(当初はポーゼン帝国大管区):旧ポーランドのポズナン県 (Pozna? Voivodship) 全体と、ほとんどのウッチ県 (?od? Voivodship) 、ポモージェ県 (Pomeranian voivodship) の5つの郡 (country)、ワルシャワ県 (Warsaw voivodship) の1つの郡を含む。

ポモージュ県の残りはダンツィヒ=西プロイセン帝国大管区(当初は西プロイセン帝国大管区)に併合される。

ワルシャワ県の北部に位置する5つの郡、プウォツク、 プウォニスク(ドイツ語版)、シェルプツ(ドイツ語版)、チェハヌフ(ドイツ語版)、ムワヴァ(ドイツ語版)は、ナチス・ドイツの東プロイセン州のツィヘナウ県(ドイツ語版)となる。

ソスノヴィエツ 、ベンジン(ドイツ語版)、フシャヌフ、ザヴィエルチェ(ドイツ語版)郡とオルクシュ(ドイツ語版)ジヴィエツ郡の一部は、ナチス・ドイツのカトヴィッツ県(ドイツ語版)となる。非公式に東オーバーシュレージエン(ドイツ語版)と呼ばれる。

これらの領域は9万4千平方kmあり、人口は約1千万人であった。

ドイツに併合されなかった旧ポーランド領は、ポーランド総督府と呼ばれる統治機関の下に置かれた。1939年10月26日ハンス・フランクが総督に任命された。首都はクラクフで、行政区画はワルシャワルブリンラドムクラクフの4つに分けられる。1941年6月のソビエト侵攻後、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の一部であった東ガリツィアがポーランド総督府の5つ目の領域となった。

ポーランド総督府は、純粋にドイツの統治機関で、ポーランド人から構成される傀儡政権ではなかった。これはドイツ支配下のヨーロッパに新たなポーランド人州を作ろうとするものではなかった。1941年3月ヒトラーは、「ここを15?20年で完全なドイツ人居住地にする」と決定していた。ヒトラーは、「4?5百万人のドイツ人に対して、1千2百万人ものポーランド人がいる。ポーランド総督府領はラインラントと同じくドイツ人のものになるべきだ」と述べている[1] 。

1939年秋、ドイツに併合された旧ポーランド領からポーランド人がポーランド総督府領に強制移住させられ、ポーランド人にとって巨大な強制収容所の様なものとなった。そこでは、ポーランド人の男女はドイツ第三帝国の工場や農場で強制労働を強いられた。
総督府の構成

ポーランドの歴史

ピャスト朝
10世紀 - 1370年 
プシェミスル朝 1300年 - 1306年
 
ポーランド・アンジュー朝 1370年 - 1399年
ヤギェウォ朝 1399年 - 1572年
ポーランド・リトアニア共和国(第1共和制) 1569年 - 1795年
ポーランド分割 1772年、1793年、1795年
ワルシャワ大公国 1807年 - 1813年
ポーランド立憲王国
1815年 - 1867年クラクフ共和国
1815年 - 1846年ポズナン大公国
1815年 - 1848年
第一次世界大戦 1914年 - 1918年
ポーランド摂政王国 1916年 - 1918年
ポーランド共和国(第2共和制) 1918年 - 1939年
第二次世界大戦 1939年 - 1945年ポーランド亡命政府
ポーランド総督府 1939年 - 1945年
ポーランド人民共和国 1952年 - 1989年
ポーランド共和国(第3共和制) 1989年 - 現在



中央行政府
総督 (Generalgouverneur)


ハンス・フランク博士(1939年10月26日 ? 1945年1月17日)

副総督 (Stellv. Generalgouverneur)


アルトゥル・ザイス=インクヴァルト博士(1939年10月25日 ? 1940年5月22日)

ヨーゼフ・ビューラー博士(1940年5月22日 ? 1945年1月17日)

県知事 (Chefs des Distrikts)
ヴァルシャウ (Warschau) 県知事


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