1987年、政府は国民投票(ポーランド語版)の不成立で経済政策の改善に失敗。急激なインフレにより、価格が40%も値上がり、直ちに全国で暴動と長期的なストライキが起こる。政府により暴力的な暴動鎮圧と軍の介入がなされた。
1989年、円卓会議により、ストライキは終了する。東欧革命と共にポーランドの共産主義体制は終了した。
キリスト教や宗教は共産主義政権により弾圧されていた。ポーランド人ヨハネ・パウロ2世は、1979年6月にポーランドを訪問[注釈 1]、国民を勇気づけた。1980年からレフ・ヴァウェンサ率いる独立自主管理労働組合「連帯」が活動を活発化、政府は1981年に連帯を非合法化。1983年、戒厳令が解除されるまでにも、非合法ながら連帯は活動を続けた。依然として国内改革と民主化を要求し、ポーランド統一労働者党による政権を揺るがし続けた。
ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ政権は、連帯の非合法化と戒厳令を敷いた。その後は穏健主義の立場で事態の打開を模索した。 ポーランドでの民主化を模索する動きは1970年代末、ポーランド系ユダヤ人活動家は反共主義グループ「en:Workers' Defence Committee (KOR)
民主化の推移
新政権は、ポーランド統一労働者党の共産主義やスターリン主義に基づいた憲法の改正、国名改正でポーランド共和国となる。国民の直接選挙による大統領選挙の導入を決定。1990年、国民投票の結果、大統領を直接選挙によってではなく総選挙後の国会で決めることになる。大統領選挙により、連帯のヴァウェンサ(ワレサ)が当選。
ポーランド民主化運動の主な人物
レフ・ヴァウェンサ - 「連帯」議長
タデウシュ・マゾヴィエツキ
レシェク・コワコフスキ
ヴワディスワフ・バルトシェフスキ
ヤン・クシシュトフ・ビェレツキ(英語版)
イェジ・ブゼク
ヤヌシュ・レヴァンドフスキ(英語版)
ヤツェク・クーロン
アダム・ミフニク
ヤロスワフ・カチンスキ
レフ・カチンスキ
ブロニスワフ・コモロフスキ
ドナルド・トゥスク
イエジ・ポピエウシュコ
ポーランド国外で民主化運動を支援した人物
ヨハネ・パウロ2世
ズビグニュー・ブレジンスキー
マーガレット・サッチャー
ロナルド・レーガン
ヤン・ヴィンツェント=ロストフスキ - イギリス生まれで、ロンドンのポーランド人組織および保守党に所属
梅田芳穂
U2 - アイルランドのロックバンド、1983年に発表したアルバム『WAR(闘)』に収録されたヒット曲『ニュー・イヤーズ・デイ』はポーランド民主化運動に捧げたもの
年譜
1979年
6月2日?10日 - ヨハネ・パウロ2世がポーランドを訪問[注釈 1]。
1980年
7月1日 - 政府が食肉価格の引き上げを実施。
7月2日 - 全国でストライキが発生、拡大する。
8月14日 - グダンスクのレーニン造船所で労働者約14,000人によるストライキ。
8月16日 - グダンスクの21企業の代表者により「連合ストライキ委員会」結成。シチェチン、ヤシチシェンビェなどでも結成される。
8月22日 - 副首相・ヤギェルスキを代表とする政府のストライキ対策委員会が連合ストライキ委員会と初交渉。
8月30日 - シチェチンで政府代表団と連合ストライキ委員会が自由労働組合の公認などで合意。
8月31日 - グダンスクで政府代表団と連合ストライキ委員会が自由労働組合の公認などで合意(グダンスク協定(英語版))。全国で同様の協定が締結。
9月1日 - グダンスクのレーニン造船所で連合ストライキ委員会を改組し、初の自由労働組合を結成。各地に広まる。
9月17日 - グダンスクで自由労働組合の全国代表者会議が開催。独立自主管理労働組合「連帯」を結成。
1981年
9月 - ソ連が軍事演習ザーパド81を実施し、ポーランドを威嚇。
12月13日 - 戒厳令が公布され、関係者の多くが拘束される。
1982年
5月1日 - ワルシャワで10万人参加の抗議集会を開催。
5月3日 - 憲法記念日に全国で抗議集会を開催。多数の参加者が拘束される。
10月8日 - 「連帯」活動で解雇されたものを拘束するために労働忌避防止法制定。
11月11日 - レフ・ヴァウェンサ釈放。
12月31日 - 戒厳令停止。
1986年
6月 - ポーランド統一労働者党大会、「正常化」を宣言。
1987年
11月29日 - 食料品、燃料などの価格の大幅引き上げ(40%)などを盛り込んだ経済改革案・政治改革案への賛否を問う国民投票(ポーランド語版)を実施するも賛成票が有効得票率の3分の2に達せず不成立。
1988年
2月1日 - 前年の国民投票で不成立となった食料品、燃料などの価格の大幅引き上げ(40%)を実施。全国でストライキ発生。