ポーランド分割
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ナポレオン戦争後、ナポレオン・ボナパルトは、ポーランド・リトアニア共和国ポーランド王国地域をワルシャワ公国として復活させた。しかしナポレオン戦争はナポレオンの敗北で終わり、ウィーン会議の結果ポーランドは再び分割された。この分割に参加した国家は、それぞれが併合した領土を(少なくとも建前上は)ある程度の自治権を有する、

ポズナン大公国プロイセン王国領)

クラクフ共和国オーストリア帝国領)

ポーランド立憲王国ロシア帝国領)

とすることに決定した。

いずれもポーランドの文化とポーランド人の権利を尊重して、ポーランド語の使用を承認することが保証されていた。しかし、それらの約束はすぐに破られ、領土は再併合された。
歴史
前史分割前のポーランド・リトアニア連合の領土(凡例の上から4色を合わせた部分)

ポーランド・リトアニア共和国(以下ポーランド)は、ヤギェウォ朝1386年 - 1572年)の断絶後、選挙王制自由国王選挙)をとっていたが、外国の干渉と貴族間の争いが頻発するようになり、国力が衰えた。17世紀中葉には「大洪水時代」(北方戦争)を迎え、スウェーデン主導による分割(未遂)の脅威を受けた(スウェーデンとリトアニア大公国によるケダイネイ合同は頓挫したが、すでにスウェーデン・ポーランド戦争で分割されていたリヴォニア北部が1660年オリヴァ条約によって正式にスウェーデン領リヴォニア(英語版)として割譲された)。また、これとは別に、ロシアロシア・ポーランド戦争を起こし、ヘーチマン国家の東半分を分割し、1686年左岸ウクライナは、恒久平和条約の締結によりロシアに割譲されることとなった。

18世紀に入ると、ポーランドは大北方戦争に巻き込まれ、スウェーデンのカール12世によって親スウェーデン派のスタニスワフ・レシチニスキ(スタニスワフ1世)が王位につけられた。その傀儡王権がロシアによって倒されると、ポーランドはロシア帝国の影響力の下に置かれるようになった。さらにポーランド継承戦争が起こるに至って、ポーランドは近隣列強の干渉を受けるようになった。
第一次分割第一次分割(1772年・凡例の上から2色が領地)詳細は「第一次ポーランド分割」を参照

ロシアのエカチェリーナ2世は、アウグスト3世が死去した1763年頃から、親露派の貴族である元愛人のスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ(スタニスワフ2世、在位1764年 - 1795年)を王位につけるなど、さまざまな内政干渉を行うようになった。プロイセンフリードリヒ2世はロシアの動きを見て、ポーランドがロシアに奪われることを警戒、オーストリア神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世を誘ってポーランド分割を提唱した。ポーランド側に復興への改革の兆しが表れたことに不安を感じたエカチェリーナ2世はプロイセンとオーストリアの提案に応じ、プロイセン・オーストリア・ロシアの3国によって第1回ポーランド分割(1772年)が行われ、3国はそれぞれ国境に隣接する地域を獲得した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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