亡命政府は、政治的にはポーランド農民党、ポーランド社会党(PPS)、労働党、国民党(英語版)の連立となった。
1940年11月、シコルスキはチェコスロバキア亡命政府との同盟に調印した[2]。シコルスキの政治的ゴールは、ポーランド・チェコスロバキア連合から始まる中・東欧連合(Central and Eastern European federation、Mi?dzymorze)だった[3]。Mi?dzymorzeの中・東欧連合に参加招待された国は、バルト三国(リトアニア、ラトビア、エストニア)、フィンランド、ベラルーシ、ウクライナ、ハンガリー、ルーマニア、ユーゴスラビア、チェコスロバキア[4]である。
1941年、ドイツがソ連を攻撃した(独ソ戦)。これを機に亡命政府はソ連との外交関係を築く[5][6]。
1941年12月11日、ポーランド亡命政府が日本に宣戦布告した[7]。
ポーランド軍人は独ソ両国の捕虜となっていたが、独ソ開戦に際し、ソ連側の捕虜は連合国側の戦力に目されるが、ナチス・ドイツとの秘密議定書により本土を蹂躙したソ連の指揮下で戦うことは無理があるため、英ソの勢力が隣り合っていたイランにおいてイギリスに引き渡された。彼らはポーランド亡命政府の指揮下に収められ、エルヴィン・ロンメルのドイツアフリカ軍団の抗戦(北アフリカ戦線、ガザラの戦い)において英国のために戦った。この軍隊は、後にポーランド第2軍団(英語版)となり連合国と共に戦う。
戦時中、特に1942年にユダヤ人のホロコースト進行中の同盟軍に派遣した[8][9]。
1943年、ドイツはカティンの森で、ソ連に虐殺された多数のポーランド軍人捕虜の死体を発見した事を公表した[10]。ソ連は、ドイツの仕業であると主張し、亡命政府に同調を要求したが、拒否されたため亡命政府と断交した。1943年、亡命政府とポーランド軍のリーダーであったシコルスキを含む政府・軍関係者13人が飛行機事故(en)で亡くなった[11]。
1942年 - 1945年、ロンドンのポーランド亡命政府内に、ユダヤ人救済委員会の「ジェゴタ」は組織された。このメンバーには、後の外務大臣(1999-2001年)ヴワディスワフ・バルトシェフスキを含む。
1943年 - 1944年、同盟国のウィンストン・チャーチルはソ連と亡命政府の会談再開を試みたが、幾つかの問題(カティンの森事件、領土問題など)により放棄された[12]。亡命政府の党首ミコワイチクは領土問題において拒否した。
1944年8月には東側からナチス・ドイツを攻めるソ連の呼び掛けに応じ亡命政府の国内軍主導によりワルシャワ蜂起が起きるが、ソ連のワルシャワ進撃がなかったため、国内軍と多数のワルシャワ市民が犠牲となる。11月ミコワイチクはソ連に不信を持つにもかかわらず辞任[13]、ポーランドに戻りソ連占領下の新政府の挙国一致臨時政府において副首相となり、首相は社会党のモラフスキ、もう1人の副首相は共産主義者のリーダー、ゴムウカとなる。
1945年6月、亡命政府と共産主義系のルブリン政権が合同し、挙国一致臨時政府(RTRP)が成立した。ルブリン政権発足当初は、ボレスワフ・ビェルト (ソ連のNKVDエージェント)が国家評議会議長に就任し、労働者党書記長をヴワディスワフ・ゴムウカが務めた。
1945年7-8月のポツダム会談までにポーランドはソビエトの勢力範囲となり、亡命政府の放棄は西欧の背信行為(en:ProvisionalWestern betrayal)と批難された[14]。
1945年、国内軍は切り捨てられ、ソ連の傀儡政権であった共産政権側による亡命系の大臣や政治家の逮捕や国外追放などで安全な帰国ができず、さらに7月、英国とアメリカ合衆国は亡命政府に対する正統政府としての承認を取り下げた。