ポーランド・リトアニア共和国
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ポーランド・リトアニア連邦は、民族の多様性が高く、1573年のワルシャワ連盟協約によって保証された比較的宗教的な寛容さが特徴であった[12]が、宗教の自由の程度は時代によって異なっていた[13]1791年の憲法では、ワルシャワ盟約とは異なりカトリックを「支配宗教」と認めたものの、宗教の自由は憲法で認められた[14]

数十年にわたる繁栄の後[15]政治軍事経済の長期的な衰退期に入り[16][17][18]、その弱体化は18世紀後半に近隣諸国(オーストリアプロイセンロシア)に分割されるに至った。その崩壊の直前に、連邦は大規模な改革努力を採用し、5月3日憲法を制定した。これは近代ヨーロッパ史上初の成文憲法であり、近代世界史ではアメリカ合衆国憲法に次いで2番目であった[19][20][21][22]
呼称

18世紀後半には対外的な国称として最も静穏なるポーランド共和国[23]、国内ではジェチュポスポリタ(ポーランド語: Rzeczpospolita、共和国[24])と呼ばれた。また、二民族の共和国[25]という呼称もあるが、1967年のパヴェウ・ヤシェニツァによる造語である[26]歴史学では「貴族の共和国(Rzeczpospolita szlachecka)」や「第一共和国(I Rzeczpospolita)」という用語も用いられる。国号に「共和国」が含まれるが、現代的な「君主を戴かない国家」という意味の「共和国」とは異なる。
政治形態

この連合国家の政治体制は、法と貴族階級(シュラフタ)によって支配される立法府(セイム)が王権を著しく制限するという特異な性質を備えていたため、しばしば貴族共和国ないし黄金の自由とも呼ばれる(以下、国称を共和国と略称)。この政治システムは、現代的な概念を当てはめれば民主制[27]立憲君主制[28][29][30]連邦制[31]の先駆的存在と言える。二つの構成国は公的には平等な関係にあったが、実際にはポーランドがリトアニアの支配国であった[32]。しかし、これについてはポーランド民族がリトアニア民族を支配したというような現代的な民族主義の解釈をするべきではなく、多民族のポーランド王国の立法行政司法の決定事項が同じく多民族のリトアニア共和国のそれらに対して優位であり、万が一両者の決定が対立した時にはポーランド王国の決定が優先された、という制度的な意味である。ポーランド国王リトアニア大公を兼位しており、共和国は両国を中心にコモンウェルスの体制を形成していた。共和国の人口構成は民族的、宗教的な多様性がきわめて顕著であり、時期によって程度の差はあるものの、同時代にあって異例といえる宗教的寛容が実現していた[33][34][35]

黄金期であった初期の数十年間[30][36][37][38][39]を過ぎると、共和国は17世紀中葉以後は政治的、軍事的、経済的[40]な衰退を続け、1795年には強大化した近隣の絶対主義国家ロシアプロイセンオーストリアによる領土分割によって国家自体が消滅するに至った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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