ヤドヴィガを押したマウォポルスカ一派は、その結婚相手を別に探していた。それが当時、ベラルーシ・ウクライナをも支配下に置いた最大最後の異教国リトアニアであった。ポーランドとリトアニアの関係は、既にカジミェシュ3世がリトアニア大公ゲディミナスの娘アルドナと結婚することで始まっていた。ヤドヴィガ即位時のリトアニア大公ヨガイラは、キリスト教への改宗を考えていた。そのような時期にヨガイラに対して、ポーランド貴族からヤドヴィガとの結婚が要請されたのである。同時期にヨガイラにはモスクワ大公ドミトリイ・ドンスコイの娘との縁談もあった。ヨガイラは熟慮した結果、ヤドヴィガとの結婚を選んだ。
1385年にクレヴォの合同が結ばれ、ポーランド=リトアニア間の連合および全リトアニア人のキリスト教改宗が定められた。翌年にヨガイラは洗礼を受け入れ、名をヴワディスワフと改め、ヤドヴィガと結婚してポーランドの共同統治を始めた(ヤギェウォ朝の成立)。
なお、もう一人の婿候補であったシェモヴィト4世の娘であるツィンバルカはヴィルヘルムの弟エルンスト鉄公に嫁ぎ、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世を儲けている。 ヤドヴィガとヴワディスワフの統治に反感を持つ者は国内外に多数いた。その一人がマウォポルスカとヴィェルポルスカの間の環状線を支配していたシロンスク=ピャスト家のオポーレ公ヴワディスワフ・オポルチクであった。オポーレ公はポーランドを分割してハンガリーとドイツ騎士団に献上しようと企んでいたが、ヤドヴィガはその野望を阻止し、オポーレ公の領土を王領下に置いている。また、ハンガリーでもマーリアの即位を巡って内戦が起きていたが、これに乗じてハーリチを奪回し、その支配下にあったモルダヴィアをポーランドに臣従させることに成功している。 国内においても、ヤドヴィガは慈善・文化事業を積極的に行った。特に私財を投げ打って荒廃していたクラクフ大学を復興させた。 1399年にヤドヴィガは娘を出産したが、母子共に命を落とした。ハンガリーを相続したマーリアもこれに先立ってジギスムントとの間に子を残すことなく死去したため、アンジュー家の東欧支配は女系の血統でも続かず終焉を迎える。しかし、ヤドヴィガの築いた礎はヤギェウォ朝にも生かされ、ポーランドは黄金時代を迎える。
内外政策
死去
歴代君主
ルドヴィク1世(1370年 - 1382年)(兼ハンガリー王)
ヤドヴィガ(1383年 - 1399年)
関連項目
アンジュー=シチリア家
ハンガリー・アンジュー朝