ポーランドの歴史
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ポーランド統一労働者党は凋落し、党員300万人の約3分の1が離党した[18]:368-372。

ソ連はスースロフ委員会を設置してポーランド情勢を分析し、軍事介入の可能性をちらつかせることでポーランドの反体制派を含め西側諸国を牽制する戦略をとった。1981年4月にブレストで行われたソ連との秘密会談で、ポーランドの代表は戒厳令の実施を約束させられ、12月にヴォイチェフ・ヤルゼルスキが首相と党第一書記を兼任して戒厳令をひいた。ヤルゼルスキは戒厳令の失敗時にソ連の軍事支援を期待していたが、国際世論を気にしていたソ連は実際に介入する意思を持たなかった[19]

1981年-1983年ポーランドの戒厳令の期間に政府は反政府を潰す為に戒厳を導入、市民の通常の生活は劇的に制限され[20]、数千人のジャーナリストや反対勢力活動家は投獄、他100人[20]ほど抹殺された。夜間外出禁止令、国境封鎖、空港閉鎖、電話回線の遮断、政府による郵便物内容検査などが執行。軍裁判所は、偽造情報発信者達を逮捕した[21]

戒厳令後も、市民の自由権は酷く制限された。軍事政権により価格は引き上げられ、深刻な経済危機となる。経済危機は、主な食料・日用品・生活必需品・物資の配給制となり平均所得は40%下落した[22]。西洋の娯楽品の入手は非常に厳しかったが、それも一層困難化した[23]

1984年10月、政府批判を行っていたポピュウシュコ神父が内務省職員により暗殺される事件がおきた。ポーランドの全教会が追悼ミサを行い、葬儀には十数万人が参列した。ヤルゼルスキ政権は事件を非難し犯人を逮捕したが、政権が受けた打撃は大きかった[18]:375-376[24][注 1]

ただし現在のポーランドの人々の間では、不穏な国内外情勢に対応していた1981年当時のポーランド政府に関する再評価の流れが定着しており、2010年に行われた調査では41%もの国民があの戒厳令を(必ずしも積極的ではないにせよ)支持していることが判明している。(33%が戒厳令に否定的見解を示しており、27%が「どちらともいえない」と回答。したがって「あの戒厳令に否定的見解を持っていない」人々の割合は67-68%となる)。[25]

ヤルゼルスキ政権は体制を維持したまま経済改革を進めて事態を収拾しようとしたが、成果は上がらなかった。1980年代後半にソ連でゴルバチョフ政権が誕生しペレストロイカに入ったことは政権側の改革への動きを後押しし、ヤルゼルスキは改革の推進のため反体制側との協力を決意しポーランドの民主化運動がはじまった。1989年2月6日より与党側と野党(「連帯」)側との対話が「円卓会議」を通じて行われ、4月5日に合意文書が調印された。これにより「連帯」は合法化され、共産党政権下での市民的自由が認められた。また、この合意を踏まえて、大統領制の復活や、上院議会の創設などを規定した憲法改正案がまもなく可決された。

1989年6月18日には部分的自由選挙が行われた。統一労働者党に有利な選挙規定だったにもかかわらず統一労働者党は惨敗、「連帯」が勝利を収めた。大統領にはヤルゼルスキが就任したものの、首相を共産党のキンシャクに定めると与党内で対立が生じ、統一農民党と民主党が「連帯」のタデウシュ・マゾヴィエツキを首相に推した。こうして、1989年9月7日には非共産主義系の首相による連立政権であるマゾヴィエツキ内閣が発足する。ただし、大統領は引き続きヤルゼルスキだったことや、閣僚には旧共産系の人材も含まれたことから、旧共産系勢力と完全な対立姿勢をとったわけではなかった。1989年12月29日、憲法が改正されて共産主義国家における指導的役割が否定された。市民的諸自由が規定され、国名はポーランド人民共和国からポーランド共和国へと変更された。
第三共和国詳細は「ポーランド民主化運動」を参照

1989年9月7日、非共産主義政府のポーランド共和国(現在)が成立した。マゾヴィエツキ政権は民主化を進める一方で、同年末にはインフレが900%に及んだ。蔵相に大学教授のバルツェロヴィチを起用し、「バルツェロヴィチ計画」を通じて急速に計画経済から市場経済への移行を図った。いわゆるショック療法に近いこの政策は、生産の減少や失業者の激増などの問題を生み、他国の政府や銀行からの借金が423億ドル(GDPの64.8%) まで増加、国際通貨基金(IMF)から10億ドル借り入れ、諸外国から経済支援を長期的に受けている。1995年までには共産党時代の生産水準を回復させた。しかし、「連帯」内での路線対立が徐々に顕在化しはじめ、ヴァウェンサはヤルゼルスキ大統領とマゾヴィエツキ首相の方針を批判し始めるに至った。1990年に行われた大統領選挙ではヴァウェンサが当選したが「連帯」は分裂し、1991年の下院選挙では小党が乱立して、短命な中道・右派の連立政権が続いた。1993年、内閣の不信任にともなって行われた総選挙では旧共産党系の民主左翼同盟が勝利し、1995年の大統領選挙では民主左翼同盟のアレクサンデル・クファシニェフスキ(クワシニェフスキ)がヴァウェンサを破って当選した。その間、1993年に法学者ハンナ・スホツカが同国初の女性首相を務めている(スホツカは現在は駐バチカンおよび駐マルタ騎士団大使)。

行政マネージメントの欠如、生産構造の悪さ、物資の欠乏は労働者のモラルを低下させ、働き盛り年代である640,000人が1981年-1989年の間に難民となり他国へ移民した[26]


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