ポーランドの歴史
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ソ連はポーランドの国内及び外交政策に対し多大なる影響を持ち、自国の軍隊「赤軍」をポーランドに駐在させた[14]ルブリン政権発足当初は、ボレスワフ・ビェルト (ソ連のNKVDエージェント)が国家法議会議長に就任し、労働者党書記長をヴワディスワフ・ゴムウカが勤めた。傀儡政権として支配された[15]。次第に共産主義系の勢力が政府の実権を握るようになり、亡命政府系の政治家亡命逮捕、多くは処刑された。1948年、ソ連の後援で共産主義のポーランド労働者党と非共産主義のポーランド社会党左派が合同し、マルクス・レーニン主義の共産主義であるポーランド統一労働者党(略称:PZPR)を創り、事実上の一党独裁政体へ移行した。ソ連の衛星国とし、農業の集団化など、ソ連型の経済政策を次々に導入した[16]1952年には共産主義憲法を制定して国名をポーランド人民共和国に改めた。このようにして、マルクス・レーニン主義の共産主義国家が成立した。

1956年にソ連でフルシチョフによるスターリン批判が行われるとポーランドでも国民が動揺しポズナニで労働者の暴動が起こったが、これをきっかけにヴワディスワフ・ゴムウカが共産党第一書記に就任し、彼のもとで自由化が進められた。政権発足当初のゴムウカは戦前のピウスツキに匹敵するほどの高い人気を集めた[17]。しかしゴムウカは徐々に保守化し、1968年にはチェコ事件においてソ連と行動をともにしたことから自由を求める国民の信頼を失った。

1970年、賃金問題から発生したグダニスク暴動の責任を問われたゴムウカは失脚し、かわってエドヴァルト・ギエレク(Edward Gierek )が就任した。ギエレクは、工場整備と食料輸入を行なう事で経済回復計画とし、西側諸国の主にアメリカと西ドイツから莫大な借金をした。一時期、経済成長したが、無計画な経済政策は急激で膨大な食品価格のインフレをまねき、これにより暴力的なプロテストが各地に広まり多数の死者が続出、軍が出動し暴動鎮圧し終了した。莫大な債務を作り出し、その余波は今日にまでに及ぶ。この経済成長は、1973年のエネルギー危機により終了した。
共産主義の崩壊戒厳令を布告したヴォイチェフ・ヤルゼルスキ

1980年、政府による食肉価格の値上げを発端として全国的な労働者のストライキが起こり、これをきっかけに東側共産主義国で初めての自主管理労働組合である「連帯」が結成された。「連帯」は電気技師レフ・ヴァウェンサ(ワレサ)を指導者としてまたたく間に勢力を拡大した。ポーランド統一労働者党は凋落し、党員300万人の約3分の1が離党した[18]:368-372。

ソ連はスースロフ委員会を設置してポーランド情勢を分析し、軍事介入の可能性をちらつかせることでポーランドの反体制派を含め西側諸国を牽制する戦略をとった。1981年4月にブレストで行われたソ連との秘密会談で、ポーランドの代表は戒厳令の実施を約束させられ、12月にヴォイチェフ・ヤルゼルスキが首相と党第一書記を兼任して戒厳令をひいた。ヤルゼルスキは戒厳令の失敗時にソ連の軍事支援を期待していたが、国際世論を気にしていたソ連は実際に介入する意思を持たなかった[19]

1981年-1983年ポーランドの戒厳令の期間に政府は反政府を潰す為に戒厳を導入、市民の通常の生活は劇的に制限され[20]、数千人のジャーナリストや反対勢力活動家は投獄、他100人[20]ほど抹殺された。夜間外出禁止令、国境封鎖、空港閉鎖、電話回線の遮断、政府による郵便物内容検査などが執行。軍裁判所は、偽造情報発信者達を逮捕した[21]

戒厳令後も、市民の自由権は酷く制限された。軍事政権により価格は引き上げられ、深刻な経済危機となる。経済危機は、主な食料・日用品・生活必需品・物資の配給制となり平均所得は40%下落した[22]。西洋の娯楽品の入手は非常に厳しかったが、それも一層困難化した[23]

1984年10月、政府批判を行っていたポピュウシュコ神父が内務省職員により暗殺される事件がおきた。ポーランドの全教会が追悼ミサを行い、葬儀には十数万人が参列した。ヤルゼルスキ政権は事件を非難し犯人を逮捕したが、政権が受けた打撃は大きかった[18]:375-376[24][注 1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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