ポーランドにおける石器時代は50万年の間続き、この時期には3種類の異なる人種が生活していた。石器時代は原始的な道具を使用する初期の人間集団から、優れた石器を使い、住居を要塞化し、銅の加工品を発達させていた農業社会まで続いていた。石器時代は旧石器、中石器、新石器の3期に区別される。旧石器時代は紀元前50万年頃から紀元前8000年頃まで続いた。旧石器時代はさらに紀元前50万年から紀元前30万年までの前期、紀元前30万年から紀元前4万年までの中期、紀元前4万年から紀元前1万年までの後期、紀元前1万年から紀元前8000年までの晩期に細かく分けられている。中石器時代は紀元前8000年から紀元前5500年まで、新石器時代は紀元前5500年から紀元前2300年までとされている。新石器時代は紀元前5500年から紀元前2900年までの狭義の新石器時代と、紀元前2900年から紀元前2300年までの銅器時代に細かく分けられる。ヨーロッパの銅器時代を代表する球状アンフォラ文化はポーランドを中心として栄えた。この文化はインド・ヨーロッパ語族の言語を話す人々の、ヨーロッパへの最初の大量移住を示していると見られる。インド・ヨーロッパ語族のイラン系民族のサルマタイ人やスキタイ人が定住していた。
青銅器時代と初期鉄器時代詳細は「ポーランドの青銅器時代と初期鉄器時代(英語版
青銅器時代と鉄器時代は主に考古学の研究によって調査されている。ポーランドにおける初期の青銅器文化は紀元前2400年から2300年頃に始まった。この時代のドイツからポーランドにおける鉄器文化はウーニェチツェ文化という。このうちのポーランドにあたる部分は東部群であるトシュチニェツ群を構成したが、ここからトシュチニェツ文化が発生した。これはスラヴ祖語の最初期の時代の文化であると推測されている。鉄器時代はおよそ紀元前750年から700年の間に始まったとされている。しかし当時ヨーロッパ中央部、東部に住んでいた集団の民族的、言語的帰属については、文書記録がないため理論的にならざるを得ず、統一的見解は出ていない。この時代のポーランドにおける最も有名な出土物はビスクピンにある要塞化された集落(グラド)で、初期鉄器文化であるラウジッツ文化(ルサティア文化)[2]を代表する遺跡である。
ポーランドの青銅器時代は、紀元前2300年から紀元前1600年までが第1期、紀元前1600年から紀元前1350年までが第2期、紀元前1350年から紀元前1100年までが第3期、紀元前1100年から紀元前900年までが第4期、紀元前900年から紀元前700年までが第5期と細かく分けられている。ハルシュタット文化に相当する初期鉄器時代は、紀元前700年から紀元前600年までをC期と呼び、紀元前600年から紀元前450年までをD期と呼ぶ。 現在のポーランドに相当する領域で文化を形成していた大半の人々は、元から居住していたあるいは様々な地域から移住してきたバルト人、トルコ人、サルマタイ人、スキタイ人、ゲルマン人、そしてスラヴ民族の祖先であるプロトスラヴ人
ラ・テーヌ文化とローマ帝国
このラ・テーヌ文化の時期は紀元前450年から紀元前400年までのラ・テーヌA期、紀元前400年から紀元前250年までのラ・テーヌB期、紀元前250年から紀元前150年までのラ・テーヌC期、紀元前200年から紀元前0年までのラ・テーヌD期に分けられる。続く古代ローマの影響を受けた時期は、その前期を0年から150年までとし、150年から375年までを後期とする。375年から500年までは民族移動期(前スラヴ時代)で、スラヴ祖語の諸言語の他にもいくつかの語派の言語が混在する時代であった。 過去に支配的だった学術的見解では、スラヴ人は中世初期まで中央ヨーロッパには存在しなかったというものであるが、近年はスラヴ人の祖先であるプロトスラヴ人
新たなスラヴ人集団の到来
ポーランド諸部族と部族諸国家かつてヴィシラニェ族の要塞があった地点、ヴィシリツァ
西スラヴ人の一派であるポーランド諸部族は、8世紀の初めに小規模な部族領を形成し、これらの諸部族は後に連合してさらに大規模になった。9世紀のバイエルンの地理学者の記録にリストアップされた部族の中には、ポーランド南部にいたヴィシラン族(Wi?lanie、ヴィスワ族)がいる。彼らポーランドのスラヴ人の中心地域はクラクフとヴィシリツァといった、ヴィスワ川上流地域だった。主な要塞集落の建設とその発展は、9世紀に起こった。『聖メトディオスの生涯』の記述によれば、9世紀後半の間に、ヴィシラン族は大モラヴィアに従属し、モラヴィア崩壊後の10世紀にはチェコ人国家の一部をなした。部族連合は7世紀以来、グラドと呼ばれる、土と木の板と堤防で作った要塞に囲われた集落を数多く築いた。これらのグラドの一部は発展して人口が多くなり、それ以外のグラドは空の区域となって、緊急時の避難場所として使われるようになった。
10世紀初頭までに、後にポーランド国家を建設することになるポラン族(Polanie)とゴプラン族(Goplanie、ゴプワン族)は、現在のヴィエルコポルスカを居住地としていた。「ポラン」の名は「平野の人」を意味している。両部族はギェチュ、ポズナン、グニェズノ、オストルフ・レドニツキの周辺の平野部を拠点としており、いつごろこの地方にやってきたのかは不明であるが、その数世紀前よりシレジア地方から勢力を拡大してきたとみられる。彼らが拠点としていたこのヴィエルコポルスカが初期ポーランドの中心地域となった(また、同地方の地名はポラン族に由来する)。彼らは早期に要塞化された居留地を建設して10世紀前半には支配領域の拡張を始め、同世紀後半には彼らの部族体がポーランド国家の原型へと発展した。同時期、年代記作者ガルス・アノニムスによれば、ポラン族は「車大工のピャスト」という人物の家族を支配者としていた。この支配者のうち、初めて名前が歴史に現れるのはミェシュコ1世で、その名は『ザクセン年代記』の作者コルヴァイのヴィドゥキントによって言及されている。彼によれば、ミェシュコの軍隊は963年、ザクセンから亡命してきた貴族ヴィヒマン2世と同盟したヴェレト族に、2度敗北を喫している。このミェシュコの治世(960年頃 - 992年)の間に、彼の率いる部族国家はキリスト教を受容してポーランド国家を形成した。
ピャスト朝詳細は「ポーランドの歴史 (966年?1385年)(英語版)」を参照
この時期の初め、ポーランド民族は一連の強力な統治者に統率された。この統治者たちはポーランドをキリスト教に改宗させ、中央ヨーロッパの強国にのし上げ、そしてヨーロッパ文化圏の仲間入りをさせた。13世紀、恐ろしい外敵の侵略と内部分裂によって、この初期国家の構造的安定は崩壊したが、1300年代の地域統合は強力なポーランド王国の基盤を築くことになった。「966年、ポーランドのキリスト教化」ヤン・マテイコ画、1889年「1025年のボレスワフ1世の戴冠」ヤン・マテイコ画、1889年
ポラン族(ポラン族とゴプラン族の連合部族、別称はレフ族)たちは、10世紀にアラビアのユダヤ商人イブラヒム・イブン・ヤクブの年代記の中で、歴史上初めて言及されている。