ポラン族の西隣にソルブ族(ラウジッツ人)やポラブ族やオボトリート族といったスラヴ部族が居たが、神聖ローマ帝国とその諸公国は彼らの土地を辺境統治地域として支配していた。北隣のポメラニアにはポモージェ族(ポメラン族、「ポモージェ」とはスラヴ語で「海の手前」の意味)やリューグ族(リューゲン族)というスラヴ部族が暮らしていた。ポーランド人の公(君主)たちは、帝国の敵対者、臣下、同盟者と抜け目なく立場を変えながら、ドイツ人やデーン人と同様、これらの部族が住む地域に支配地を拡張していた。ミェシュコの時代に支配下にあった地域は正確には分からないが、ヴィエルコポルスカ、マウォポルスカ、マゾフシェ、シロンスクそしてポモジェ(ポメラニア)の一部を包含していたと思われる。ミェシュコはおよそ25万km2の土地を支配下におさめ、そこには少なくとも100万人が住んでいた。
ミェシュコはチェコ公ボレスラフ1世の娘ドブラヴァと結婚し、966年にローマ教会の主導でキリスト教に改宗した。君主の改宗はミェシュコの公国における大規模なキリスト教改宗を引き起こし、このことは政治的に重要な事件となった。これによってポーランドはキリスト教西方世界の一員となったからである。またチェコとの同盟によって、ミェシュコはドイツ人の拡張に共同して戦うことになった。彼は慎重にドイツ人の政治的影響を避け、ローマと直接つながっていたチェコ人の聖職者から洗礼を受けている。
967年、ミェシュコ1世はヴィヒマン2世伯とその同盟者を倒した。972年にはツェディニャの戦いで、皇帝の辺境伯としてポモジェを支配していた辺境伯オード1世に勝利した。ミェシュコが992年に死ぬと、息子のボレスワフ1世が強大に成長した公国を受けついだ。
ボレスワフは父の偉業を引きついだ。彼は継母オデと彼女が生んだ異母弟たちを追放して国家の統一を維持した。西暦1000年のグニェズノ会議の決定により、ボレスワフと神聖ローマ皇帝オットー3世は、ポーランド最初の大司教区(グニェズノ大司教区)を創設した。
オットー3世が1002年に死ぬと、次の皇帝になったハインリヒ2世と敵対したボレスワフは、マイセン辺境伯領とラウジッツ(ルサティア)を占領した。このことは1033年まで続く帝国との紛争を引き起こした。ボレスワフは1003年にボヘミアを占領したが、翌年にはこれを喪失した。また彼は東隣のルーシを攻撃し、1018年にはキエフにまで攻めのぼった。
その後、ボレスワフは皇帝ハインリヒ2世と同盟することを余儀なくされ、領地を帝国の封土として保証された。1024年、ハインリヒ2世は崩御した。翌1025年、死を目前にしたボレスワフは王として戴冠した。彼の戴冠はポーランド国家の政治的、領土的な独立の画期となった。
初期のポーランド王国 (1025年 - 1138年)992年から1025年までのポーランド1039年から1058年までのポーランド
ミェシュコ1世はピャスト朝(一族の始祖とされる伝説的な農夫の名前に由来)最初の君主とされており、この王朝は4世紀にわたって存続した。965年から992年の間、ミェシュコは北はバルト海に接する地域から、南はマウォポルスカまでという広大な地域を領していた。990年にローマの聖座の権威に公的に服したことで、ミェシュコの公国は東ヨーロッパにおけるもっとも強大な国家の一つとなった。
ミェシュコの息子で後継者の勇敢王ことボレスワフ1世(在位992年?1025年)は、父の遺産をさらに大きくし、中世前期における最も偉大なポーランド君主となった。ボレスワフは神聖ローマ帝国に従属する姿勢を続けたが、その一方で領土獲得レースではどの地域でも優位に立っていた。帝国と対等な関係を築こうとする努力は無駄に終わったが、ボレスワフは1003年と1004年の帝国との戦争でいくつかの領土を獲得した。その後ポーランドは東に転じ、公国の国境を現在のウクライナにまで拡げた。死の直前の1025年、ボレスワフは最初の国王となり、ポーランドの完全な主権を国際的に認めさせることが出来た。その息子ミェシュコ2世は1025年、父の死後に戴冠した。しかし多くの地方領主たちは、国王による単独統治を恐れていた。この事態は国内において紛争を引き起こし、ミェシュコの兄弟は彼に反抗し、皇帝コンラート2世の軍隊が国内に侵攻してラウジッツを包囲した。混乱と紛争の時代が幕を開け、ミェシュコ2世は廃位と短い復位の後で、不可解な状況下に死去(1034年)。カジミェシュ1世(在位1037年 - 1058年)の治世は短い安定期だった。カジミェシュ1世は国内を統合し、その後継者ボレスワフ2世は皇帝ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世との紛争を上手く利用して、1076年に国王として戴冠し、地方領主たちは再び反乱をおこし、ボレスワフ2世を廃位した。弟のヴワディスワフ1世ヘルマンが後を継いだものの1102年にはやはり廃され、権力は2人の息子ズビグニェフとボレスワフ3世に渡ったがボレスワフ3世はズビグニェフを1107年に国外に追放し、1112年にはこの異母兄の両目を潰し、政治的に葬った。
ボレスワフ3世は1106年に国家の統合に成功し、その後も統一国家を神聖ローマ帝国から防衛した。彼はポーランドが以前に征服した領域を再征服し、ポモジェを含む広い領域を一時的に回復した。ボレスワフは1138年、死の直前に国家を自分の息子たちの間で分有させることを決めた。長子権の原則によって、ボレスワフ3世は息子たちへの遺言状という形でポーランド国家をシロンスク、ヴィエルコポルスカ、マゾフシェ、サンドミェシュおよびクラクフの5つの公国に分割した。