ポートロワイヤルの戦い_(1710年)
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スコットランド出身で、入植地とのつながりもある実業家サムエル・ベッチが、1708年ロンドンに出向いて、ヌーベルフランスを征服するための軍事的援助を、アン女王に陳情した[18]。1709年、この、アカディアとカナダをすべて制圧する「大いなる事業」を女王は認可したが、約定したはずの支援が実現せず、この計画は頓挫した[19][20]。ベッチと、イングランド人で、かつてメリーランドバージニアで総督を務め、その後本国に戻ったフランシス・ニコルソンとは、再び女王に支援を要請した。2人は4人の先住民の族長と行動を共にしており、この族長たちは、ロンドンで注目の的となっていた[21]。ニコルソンとベッチは、植民地の利益のために、ポートロワイヤルへのイギリス軍の支援について、うまく女王を説き伏せた[22]フランシス・ニコルソン

1710年の7月15日、ボストンに到着したニコルソンは、アン女王から「ノバスコシアの、ポートロワイヤル制圧のための遠征に雇われた、すべての、様々な軍の総司令官、そして総督」という長い肩書をもらっていた[22]。イングランドから連れて来た400人の海兵隊員のほかに、ニューイングランドの4つの植民地では民兵を募集していて、マサチューセッツ湾で900人、ロードアイランドで180人、コネチカットで300人、そしてニューハンプシャーで100人の民兵が集まった[23]。植民地の兵も、イギリス海軍の、清教徒の士官ポール・マスカレンから、包囲戦の技術について教わっていた[24]イロコイ族の部隊も、遠征の斥候として召集された[25]。そして9月29日、36隻の輸送船と、2隻の臼砲艦、そして5隻の軍艦から成る艦隊が出港した[22]。ファルマス(en:HMS Falmouth (1708))とドラゴン(en:HMS Dragon (1647))の2隻はイングランドから派遣されたもので、フィーバーシャム(en:HMS Feversham (1696))とローウェストフトはニューヨークから、既にボストンに配置されていたチェスター(en:HMS Chester (1708))と合流した[26]。ニコルソンは、ポートロワイヤルまでの航海の難所であるディグビー・ガットへの対処のため、艦隊の先頭にチェスターを入れた[24]1702年当時のポートロワイヤルの図

ポートロワイヤルは、300人の部隊が守っていたが、兵の多くは、フランス本国で召集され、あまりきちんとした訓練を受けていない者たちだった[27]。ダニエル・ドージュ・ド・スーベルカスは、1707年の戦い以来、防御の改善や、防弾機能のある火薬庫兵舎の建造、相手の攻撃に対して、視界の邪魔になる樹木を川岸から取り払うなどの策を取っていた。スーベルカスは、海上の戦力となる新しい船も作っており、ニューイングランドの漁業や船に対して、莫大な効果を上げている私掠船も雇っていた。この私掠船の捕えた捕虜たちから、1708年、そして1709年にも、ポートロワイヤルへの新たな攻撃が、引き続き計画されているという情報を入手していた[28]
戦闘

北に進んでいたイギリス艦隊は、チェスターの艦長であるトマス・マシューズの派遣した船と出会った。その船には、フランス入植地の駐屯地から脱走した兵たちが乗っており、彼らによると、フランス兵のモラルは極めて低いということだった[24]。輸送船の1隻を先頭にして、ディグビー・ガットに入ると、岸にいたミクマク族の一団から砲弾が発射された。艦隊は砲撃を返した、どちらにも死傷者は出なかった。10月5日、主力のイギリス艦隊が、ポートロワイヤルの10キロほど南にあるゴート島に到着した[29]。その午後、輸送船シーザーが、アナポリス川に入ろうとしていて座礁し、ついには岩礁に押し流された。これで、艦長と、乗組員何人かと、兵士が23人犠牲になった。いっぽうで、難を逃れた指揮官と25人ばかりの兵が、苦心惨澹しながら沿岸を進んでいた[29]アカディア総督ダニエル・オージェ・ド・スーベルカス

翌10月6日、イギリスの海兵隊が、要塞と町の南北からそれぞれ上陸を開始した。北の方の軍は、大佐のベッチが率いる、ニューイングランドの4つの連隊だった。ニコルソンは、それ以外のニューイングランドの軍をはじめとする、南の軍の指揮官だった。上陸は大事もなく行われた。要塞から弾が飛んで来たが、艦隊の臼砲艦からの砲撃が、それに応えるべく長距離を飛んで行った[30]。後世の記述では、ベッチが分遣されたのは、戦略上の一環であるといわれているが、その当時の記述によれば、ベッチは、ニコルソンとは関わりなく、思い通りにやりたかったのだとされている。また、当時の記述はどれも、ベッチは、要塞の弾が届くところには、戦闘が終わってから足を運んだとなっている。要塞から、アランズクリークを横切った泥だらけの場所で、ベッチは臼砲を発射しようとしたが、相手方の砲火により退却させられた[30][31]。南の方の軍は、要塞の外で、ゲリラ戦法による反撃に遭った。アカディア人と先住民が、携帯用の銃を建物や森の中から発砲していた[32]。加えて、要塞からまた弾が発射され、イギリス兵3人が死んだ。しかし、ゲリラ軍は、イギリス軍を南岸にとどめておくことはできなかった。当のイギリス軍の野営地は、要塞から370メートルしか離れていなかった[30]

その翌日から4日の間、イギリス兵は大砲を陸に揚げ、野営地に運んだ。要塞からの砲撃も、要塞の外のゲリラ軍の戦闘も続いており、要塞内部では、臼砲艦による毎晩の長距離砲で、大混乱だった[33]。野営に運び込まれた新しい大砲も、発射される機会をうかがっていた。10月10日、スーベルカスは、交渉のため士官を、イギリス陣営に派遣したが、交渉は出だしからつまずいた。その士官は、事前に、鼓手が太鼓を鳴らして到着を知らせるという手続きを踏んでおらず、軍の礼儀作法をわきまえている使者を改めて送ることになった。そしてイギリス軍はなおも包囲を続けた[34]

10月12日、イギリス軍の塹壕は前の方に移動し、要塞から300フィート(91メートル)の距離の大砲が砲弾を放った。ニコルソンは、スーベルカスに降伏するように要求し、交渉が再開された。この日の夜までに、関係者は降伏の条件に関して合意し、翌日正式に署名される運びとなった[35]。ポートロワイヤルの駐屯部隊は「兵器に荷物、太鼓の音、ひるがえる軍旗」と共に、要塞を去る許可を与えられた[33]。イギリス軍は駐屯兵たちをフランスまで送り届けることになり、また、現地の入植者の保護のために、降伏文書の中で条件を明記した。それは「要塞の大砲の射程内の居住者」は、自らが望むのであれば、向こう2年間にわたり財産を確保できること、イギリス国王に忠誠を誓えば、イギリス臣民の待遇が与えられるというものだった[33]
イギリス領ノバスコシアへノバスコシア初代総督サムエル・ベッチ

イギリス軍は、10月16日の式典の後、正式にポートロワイヤルを自国領とした。アン女王に敬意を表してアナポリス・ロイヤルと改名され、サムエル・ベッチはノバスコシアの新総督となった[36]


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