ポートアイランド
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

今後の都市開発に先駆的な役割を果たしたとして、1980年度に日本都市計画学会石川賞[1]および土木学会技術賞[2]、2005年度と2008年度に全日本建設技術協会全建賞[3][4]などを受賞した。

埋立工法やその後の街区開発などでは先進的な技術が用いられ、世界初の試みのものも少なくない。当地区の整備は、あらかじめ決められた基本的方針によって計画的に行われており、メインストリートである「ポートピア大通り」は「新・日本街路樹100景」に、ポートアイランド内3か所が「神戸らしい眺望景観50選」に、ポートアイランド西公園(ポーアイしおさい公園)が「神戸らしい眺望景観10選」に選ばれた。

1987年には南側の第2期地区の建設が開始され、東沖の六甲アイランドを超え再び日本最大の人工島となった。1998年には第2期地区が「神戸医療産業都市 (KBIC)」に指定、国内最大級の医療クラスターとしての一面も持つ。次世代スーパーコンピュータ」および富岳の誘致に成功するなど、研究ゾーンとしての注目も浴びている。港湾機能では「スーパー中枢港湾/ハイパー中枢港湾」の「次世代高規格コンテナターミナル」に指定され、阪神・淡路大震災により一時は取扱量が減少していたものの、震災前の水準を超えて年々取扱量が増加している。

商業面での発展だけでなく、教育面でも先進的な取り組みが行われており、2002年には三宮地域と神戸空港を結ぶ重要な都市軸上に位置する西側の区域が「神戸ポートアイランド西地域」として政令による都市再生緊急整備地域に指定され[5]、ポーアイ4大学のキャンパスの開園[6]へと再開発が行われたことをきっかけに大学および高等学校が増加、神戸市内有数のキャンパスゾーンを形成している。2016年にはこれまでの小中一貫教育の取り組みが制度面で認められ、日本初となる義務教育学校が設立された。

1995年に発生した阪神・淡路大震災では液状化現象などにより甚大な被害を受けたが、迅速な復旧により震災を乗り越え、街びらきから40年が経ち、新たな街づくりが始められている。
工期

着工竣工総面積町名
第1期(北部)
1966年(昭和41年)1981年(昭和56年)4.43 km2 (443ha)[7]港島中町港島
第2期(南部)1987年(昭和62年)2010年(平成22年)3.90 km2 (390ha)[7]港島南町・港島

町名
港島(みなとじま)
海岸沿い(南岸を除く)
港島中町
北部(海岸沿いを除く)
港島南町
南部(東岸を除く)
歴史
構想と建設建設中のポートアイランドの航空写真

戦後の高度経済成長期に、神戸港の港湾貨物の取扱量は予想以上の伸びを示し、これにより入港船の滞船が慢性化していた。神戸市は新港第7突堤・第8突堤や兵庫突堤、摩耶埠頭などの建設により、港湾施設の増強に努めるものの滞船は減少するきざしがなく、それをさらに上回る勢いで貨物量は増加する一方であった。また、当時は明治時代に建設された新港突堤を中心に運用されていたが、いずれも施設が古く、特に世界海運界のコンテナ化が進むなかで、従来の狭い埠頭ではコンテナヤードとしての利用は困難であった。そのため、新たに建設する埠頭は、バース数の多く大規模なものを早急に建設する必要が生じた。加えて、背後の市街地では開発がしつくされ[* 1]、港湾に付随する貿易関連などの諸施設用地などの取得はきわめて困難で、新たにこれらの用地も確保、造成する必要があった。一方、都市施設に対する市民の要求も多様化し、政治、経済、商業、文化等の都市機能を受け入れることのできる新しい都市空間の創造が必要となった。これらのことから、1963年11月に最初のポートアイランド構想が浮上した。

計画にあたっては、
世界海運界のコンテナ化に対処し、従来の櫛形突堤では求められなかった広い埠頭、コンテナバースを建設する。

外貿貨物量の急増に対処し、大幅な定期船バースの増加をはかる。

バース使用のいっそうの効率化をはかるため、専用貸付方式を実施する。

高度の機械化荷役をはかるとともに、経岸荷役を促進し荷役費の軽減をはかる。

造成用地は神戸港将来の発展のために利用し、業務商業用地、貿易関連産業用地、都市再開発用地、交通ターミナル、住宅用地、緑地公園等を配置し、うるおいのある港湾都市づくりをすすめる。

の5つの目標が掲げられた。

このような方針にもとづいて、新港突堤の南に扇状にひろがる第2防波堤、第3防波堤に囲まれた水面にE字型の人工島として計画されたのがポートアイランドである。1966年2月28日の「ポートアイランド埋立基本計画」によりポートアイランド誕生への第一歩が踏み出された。同年4月14日には、早くも護岸工事が着工され、翌年1967年4月7日には高倉山を中心に、横尾、名谷および西神総合運動公園地区の広範囲の土砂や、建設残土を合わせた約8千万m3の土砂によって埋立が開始された。掘削された跡地は須磨ニュータウンの中核をなす住宅地へと開発され、「山、海へ行く」を合言葉としてこれら一体の開発が進められた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:123 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef