ポンピドゥー・センター
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なお、散逸した松方コレクションのうち、第二次世界大戦フランスに留め置かれた作品の一部をポンピドゥー・センター国立近代美術館が所蔵している[15]

企画展

通常、6階および中二階の一部に展示。以下の「主な企画展」を参照のこと。

映画館・多目的ホール

実験映画を中心に一般の映画館ではめったに上映されない映画、監督ごとの特集映画(たとえば、2018年8月現在は河瀬直美*、イサキ・ラクエスタ)、ビデオなどを上映[16][13]

国立音響音楽研究所

音楽および音響に関する制作部門、研究部門、教育部門から成る研究所。詳細は「IRCAM」を参照
建築物

建築物全体の寸法・土木/建築資材[17]
敷地面積2 ha― 資材 ―
地上階7階建て土木工事300,000 m3
延床面積103,305 m2鉄筋コンクリート50,000 m3
高さ42 m (ボーブール通り側), 45.5 m (広場側)鉄骨の枠組み15,000 t
幅166 mファサード ガラス11,000 m2
奥行き60 mファサード その他7,000 m2
地階3階(高さ18 m; 幅180 m; 奥行き110 m)

組織運営

ポンピドゥー・センターは、各省庁が所管する高等教育機関などと同様に「行政的性格を有する公施設法人(EPA)」[18]――国家により当該施設に関する公共政策の策定と実施を全面的または部分的に委託された法人――であり、したがって、国の補助金と独自の財源(入場料、提携、メセナ等)により運営されている。理事会は、国の代表、国会議員、パリ市長、専門家らにより構成される[19]

ポンピドゥー・センターの会長(任期5年)は、文化相が推薦し、共和国大統領が任命する。現在の会長はセルジュ・ラヴィーニュである[20]国立音響音楽研究所 (IRCAM)

ポンピドゥー・センターは国立近代美術館・産業創造センター (MNAM-CCI) 部門、文化推進部門 (DDC) および各管理部門により構成され、国立近代美術館・産業創造センター部門には、近代芸術、現代芸術、グラフィック・アート写真実験映画ニューメディア、作品収集、作品修復などの分野がある[19]
歴史
国立近代美術館

国立近代美術館の起源は、1750年ルイ15世がフランス最初の美術館として設立したリュクサンブール美術館に遡る。1818年にリュクサンブール美術館の所蔵品のうち没後10年を経た画家の作品をルーブル美術館に移動し、さらに、1922年には外国人画家の作品をジュ・ド・ポーム国立美術館に移動して特別室を設置した[21][22]。また、1886年にはリュクサンブール美術館の別館も建てられたが[23]、いずれの美術館も手狭になり、新たに近代美術館を設立する必要があった。このとき、リュクサンブール美術館の学芸員であった美術史家のルイ・オートクール(フランス語版)が新しいパリ市立近代美術館の設立を提案し、一方で、フランス政府も、王室の絨毯を製造していたサヴォヌリー工場の跡地に国立近代美術館を建てる計画を発表したため、結局、1937年パリ万国博覧会に合わせて建設する建物にパリ市立近代美術館と国立近代美術館を併設することになった。この建物が現在のパレ・ド・トーキョーである[24]。ただし、第二次世界大戦中は所蔵品を地方に移動して保管していたため、国立近代美術館が正式に開館したのは1947年6月9日であった。
ジョルジュ・ポンピドゥーの構想ジョルジュ・ポンピドゥー大統領 (1969)

最初に「20世紀の美術館」という構想を打ち出したのは、「空想美術館」[25]という概念を提唱し、ド・ゴール政権下で文化担当国務大臣を務めたアンドレ・マルローであった。実際、マルロー文化相 (1960-1969) は建築家ル・コルビュジエ (1887-1965) にこのプロジェクトを一任し、ル・コルビュジエは螺旋状の建物を設計していたが、1965年の急死により、結局、このプロジェクトは実現を見なかった[26]

1969年、大統領に就任したジョルジュ・ポンピドゥーが、首都パリの中心部に造形芸術のほか、デザイン、音楽、映画関連の施設を含む近現代芸術拠点を設ける構想を発表した。目的は、1) 特に1960年代に世界の芸術の中心地がパリからニューヨークに移ったため、こうした衰退に歯止めをかけ、現代芸術の中心地としてのパリの地位を取り戻すこと、2) 世界に開かれた芸術創造の場を提供し、分野横断的な新たな芸術表現を可能にすること、3) 国が最新の芸術動向と一般大衆をつなぐ仲介役となること、4) パリに20世紀後半の建築を代表するモニュメントを建てることなどであった[27]。ポンピドゥー大統領のこの構想は、高級芸術(ハイアート)と大衆芸術(ロウアート)[28]、文化の中央集権化と地方分散化などの観点から論争を巻き起こした。同じくポンピドゥー大統領の意思により、1972年にグラン・パレで「芸術の力」と題するフランス現代美術の大規模な企画展が開催されたときにも同様の論争が起こり、多くの芸術家が国家権力による芸術活動への介入を批判した[29]
国立図書館

一方、フランス国立図書館(現リシュリュー館; 新館のフランソワ・ミッテラン館は1994年に完成)も手狭になり、1966年に新しい国立図書館を建てる計画が発表された。候補地はレ・アルのパリ中央市場の跡地であった[30]。この市場は、1866年ナポレオン3世時代のパリ市長であったジョルジュ=ウジェーヌ・オスマンの都市改造計画の一環として、ヴィクトール・バルタールの設計により建てられたが、1959年に中央市場の移転計画が発表され、1969年にパリ市南部、オルリー空港近くのランジスの町に移転した後、1971年に旧市場が解体された[31]。だが、最終的には、1968年パリ議会[32]が、パリ市が管轄するボーブール地区に国立図書館を建てることを承諾した[33]
最終計画

こうした経緯から、翌1969年にポンピドゥー大統領が近現代芸術拠点を設ける構想を発表したときにはボーブール地区を候補地に挙げていたが、同地区は国立図書館の建設予定地であったため、翌1970年にあらためて美術館を含む総合文化施設に国立図書館を併設する計画を発表し、これにより「図書館を利用する何千人もの人々が、同時に芸術に接することができる」と説明した[34]

当初、この総合文化施設には国立近代美術館、国立図書館およびパリ装飾芸術美術館(フランス語版)のフランソワ・マテイ(フランス語版)館長が創設した産業創造センターを含める予定であったが、ポンピドゥー大統領は1971年にこれに音楽創造センターを加えると発表し、作曲家のピエール・ブーレーズをこのプロジェクトの責任者に任命した。これが現在の国立音響音楽研究所 (IRCAM) である。なお、当初の計画になかったこの研究所を建設するために、サン・メリ教会に隣接するサン・メリ小学校をルナール通りに移転しなければならなかった[35][36]

この計画はこの後もさらに練り直しが必要であった。国立近代美術館は文化省、国立図書館は国家教育省の管轄であり、音楽家の間でも国の政策について意見の対立があったからである[37]


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