また、性的少数者(LGBT・クィア)である同性愛者・両性愛者(レズビアン・ゲイ)向けのポルノは、異性愛者向けのポルノよりもかなり市場規模が小さい。詳細は「:en:Lesbian erotica」、「ゲイ・ポルノ」、「:en:Bisexual pornography」、「:en:Transgender pornography」、および「:en:Queer pornography」を参照 1980年代には保守化・右傾化の波に乗った右派のアメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンやモラル・マジョリティ、キリスト教原理主義者らによるポルノ批判が激しくなり、レーガンは反ポルノ法を成立させた[18]。日本では1970年代に、日本共産党の宮本顕治委員長が「11PMはポルノ番組だ」と批判したことがある。また1980年代には、山田洋次が「ポルノを見る人は、働くのが嫌いな人」とFMラジオで発言した。これをたまたま聴いていた若松孝二は、強い怒りを感じたという。 グロリア・スタイネムは、性描写を含む表現物の中でも男尊女卑、女性差別的な価値観に基づくポルノと、男女平等で友好的な性愛を追求するエロティカを区別した。そして前者を批判しつつ、エロティカという形で女性が性差別的な価値観を押し付けられることなく、「ポルノを楽しむことができる」可能性を提示した[19][20]。 ポルノと現実での事象の関係として、性犯罪・性被害を誘発するという批判もある[要出典]。また、現実の性被害を喚起するだけではなく、ポルノの製作現場において被写体となる女性が性被害を受けることがしばしばあることや、不快感のある人に対してポルノを強制的に見せることが批判の対象となる[21]。保守的な反ポルノ派のキャサリン・マッキノン、アンドレア・ドウォーキンはポルノに強硬に反対した。アンドレア・ドウォーキンは、ポルノ取り締まりのためにはアメリカ右翼とも面談し、性行為自体が「男性が女性を支配する」という男性優位的な構造を持っているとしている[22]。 リベラリズムや中道左派は、ポルノ規制は表現の自由に対する侵害であると主張をしている。一方でマッキノンは、ポルノは単なる「表現」ではなく女性が男性に隷属する構造を構築する「行為」であるため、表現の自由による擁護の対象にはならないと主張をしている[23]。 マッキノンは実際にミネアポリス・インディアナポリスでポルノ規制の条例を議会で通過させており[24]、その過程で保守的・道徳主義的な立場からポルノ規制を目指すグループと手を結んだ[25]。しかし、ミネアポリスの条例は市長が署名を拒否したため「廃案」となり、インディアナポリスの条例は市長の署名を経て一旦成立したものの、「違憲訴訟」が行われ、アメリカ書籍業協会対ハドナット裁判で合衆国連邦裁判所によって「違憲判決」が出され、無効となった。 日本の女性団体であった「行動する女たちの会」は、女性が傷つくポルノには反対しながらも、「道徳的な観点からポルノを問題視するわけではない」こと、また『国家による法的規制を求めているわけでもない』ことを強調した。1990年代に有害コミック(青少年向けの露骨な性描写を含む漫画)の規制運動がおこったとき、「母親運動」側は規制を推進すべきとの立場であったが、「行動する女たちの会」はこれに対して『異議を申し立てた』[26]。 フェミニストの中にも既存の性秩序への破壊力をポルノに認め、ポルノ一般に寛容な立場もある[27]。特にその根拠となるのは、ポルノの規制は公権力の介入によって表現の自由が制限されることが問題であるというものである。猥褻表現と芸術表現の境界をどう判断するかという論点に関しては、大島渚監督は「猥褻で何が悪い」と、芸術と猥褻を区別することは誤りだと主張した。このほか、ポルノからエロティカを区別して排除する考え方は、「女性の性的嗜好の多様性を否定するものである」という批判もある[28]。 「現実(の性犯罪・性被害)とポルノの関係」については、ポルノが現実の性犯罪を誘発しているという実証的な根拠に乏しいという批判や、ジュディス・バトラーや赤川学のようにポルノは現実とは異なる「別種の現実」あるいは「代償的幻想」であるという批判がある。[29]また、代償としてポルノが利用されればカタルシスによって現実での性犯罪が抑制されるという見方もあり、実証的な研究論文などでは、ポルノグラフィと性犯罪に直接の関係がないとの主張も存在する[30](メディア効果論も参照のこと)。 「ポルノは男性優位的な社会構造の反映である」というテーゼについては、アンソニー・ギデンズらはむしろ男性社会の権威が低下しているからこそそれを補強するためにポルノが必要とされているのであると論じている[31]。
ポルノへの否定的意見
ポルノ擁護論