ポルトガル
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

人口密度111.3[1]人/km2

GDP(自国通貨表示)
合計(2020年)2000億8800[2]ユーロ (€)

GDP(MER
合計(2020年)2283億5600万[2]ドル(48位
1人あたり2万2148.801[2]ドル

GDP(PPP
合計(2020年)3475億7100万[2]ドル(51位
1人あたり3万3711.684[2]ドル

独立
レオン王国より独立1128年
ポルトガル王国成立1139年
レオン王国国王が承認1143年
ローマ教皇が承認1179年
革命により共和制に移行1910年10月5日
カーネーション革命1974年4月25日

通貨ユーロ (€)(EUR[注釈 1][注釈 2]
時間帯UTC±0 (DST:+1)[注釈 3]
ポルトガル時間
ISO 3166-1PT / PRT
ccTLD.pt
国際電話番号351
^ a b “ ⇒UNdata”. 国連. 2021年10月11日閲覧。
^ a b c d e IMF Data and Statistics 2021年10月15日閲覧([1])

ポルトガル共和国(ポルトガルきょうわこく、ポルトガル語: Republica Portuguesa)、通称ポルトガルは、南ヨーロッパイベリア半島に位置する共和制国家首都リスボンユーラシア大陸最西端の国である。北と東にスペイン国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアゾレス諸島マデイラ諸島を領有している。
国名[ソースを編集]

正式名称はポルトガル語で、Republica Portuguesa([???puβlik? pu?tu??ez?] レプーブリカ・プルトゥゲザ)。通称、Portugal ([pu?tu??a?] プルトゥガル)。

日本語の表記は、ポルトガル共和国。通称 ポルトガル 。

漢字表記は葡萄牙で、 葡と略される。これは広東語の発音(Pou4tou4nga4≒ポウトウガー)による漢字表記に由来し、19世紀の中国南部で生まれ、日本を含む周辺国に伝わった表記である。それまでは「波爾杜瓦爾」「保留止賀留」「蒲麗都家」などの多くの表記もあったが、幕末期より日本でも葡萄牙の漢字表記が優勢となっている。

英語表記はPortugal、国民・形容詞はPortuguese。

国名の由来は、ポルトラテン語名である「Portus Cale(ポルトゥス・カレ、「カレの港」の意)が転訛したものとされている。
歴史[ソースを編集]詳細は「ポルトガルの歴史」を参照
先史時代とローマ化[ソースを編集]

現在から35,000年前にはクロマニョン人ピレネー山脈を越えてイベリア半島に進出し始め、ポルトガルにもコア川(英語版)(ドウロ川支流)沿いに動物壁画が残されている。紀元前3000年ごろに新石器時代に突入すると、この地でも農業が始まった。紀元前1000年ごろにイベリア半島に到達したフェニキア人によって青銅器文明がもたらされ、ギリシャ人もこの地を訪れた。当時この地にはイベリア人が定住していたが、紀元前900年ごろから断続的にケルト人が侵入を続けた。

紀元前201年第二次ポエニ戦争に勝利したローマ共和国は、それまでイベリア半島に進出していたカルタゴに代わって半島への進出を始めた。先住民のルシタニア人(英語版)はヴィリアトゥス(英語版)の指導のもとでローマ人に抵抗したが、紀元前133年にはほぼローマによるイベリア半島の平定が完了し、現在のポルトガルに相当する地域は属州ルシタニアとガラエキア(英語版)に再編された。これ以降、「ローマの平和」のもとでイベリア半島のラテン化が進んだ。
ゲルマン諸王国とイスラームの侵入[ソースを編集]紀元560年のイベリア半島の勢力図。スエヴィ王国西ゴート王国が並立している。ピンクはローマ領ヒスパニア属州

ローマ帝国が衰退すると、イベリア半島にもゲルマン人が侵入を始めた。411年にガラエキアに侵入したスエヴィ人スエヴィ王国を建国し、西ゴート人西ゴート王国がこれに続いた。西ゴート王国は585年にスエヴィ王国を滅ぼし、624年に東ローマ領(スパニア属州)を占領、キリスト教の下でイベリア半島を統一[注釈 4]したが、内紛の末に711年ウマイヤ朝イスラーム遠征軍によって国王ロデリックが戦死し、西ゴート王国は滅亡してイベリア半島はイスラーム支配下のアル=アンダルスに再編された。アンダルスには後ウマイヤ朝が建国され、西方イスラーム文化の中心として栄えた。

キリスト教勢力のペラーヨアストゥリアス王国を建国し、722年コバドンガの戦いの勝利によってイベリア半島でレコンキスタが始まったあと、868年アストゥリアス王国アルフォンソ3世ガリシア方面からポルトゥ・カーレ(英語版)を解放し、ヴィマラ・ペレス(英語版)を最初の伯爵としたポルトゥカーレ伯領が編成された。1096年にこのポルトゥカーレ伯領とコインブラ伯領が、アルフォンソ6世からポルトゥカーレ伯領を受領したブルゴーニュ出身の騎士エンリケ・デ・ボルゴーニャのもとで統合したことにより、現在のポルトガルに連続する国家の原型が生まれた。
ポルトガル王国の盛衰[ソースを編集]

ポルトゥカーレ伯のアフォンソ・エンリケスは、1139年オーリッケの戦いムラービト朝を破ったことをきっかけに自らポルトガル王アフォンソ1世を名乗り、カスティーリャ王国との戦いのあと、ローマ教皇の裁定によってサモラ条約(英語版)が結ばれ、1143年にカスティーリャ王国の宗主下でポルトガル王国が成立した。

ポルトガルにおけるレコンキスタはスペインよりも早期に完了した。1149年には十字軍の助けを得てリスボンを解放し1249年には最後のムスリム拠点となっていたシルヴェスファロが解放された。レコンキスタの完了後、首都が1255年コインブラからリスボンに遷都された。1290年にはポルトガル最古の大学であるコインブラ大学が設立された。また、1297年にはカスティーリャ王国との国境を定めるためにアルカニーゼス条約(ポルトガル語版)が結ばれ、このときに定められた両国の境界線は現在までヨーロッパ最古の国境線となっている。また、この時期にポルトガル語文章語となった。

ディニス1世のもとで最盛期を迎えたボルゴーニャ朝は14世紀半ばから黒死病の影響もあって衰退し、百年戦争と連動したカスティーリャとの戦争が続く中、1383年に発生した民衆蜂起をきっかけに親カスティーリャ派と反カスティーリャ派の対立が激化した。最終的にイングランドと結んだ反カスティーリャ派の勝利によって、コルテス(イベリア半島の身分制議会)の承認のもとで1385年アヴィス朝が成立し、ポルトガルはカスティーリャ(スペイン)から独立した。エンリケ航海王子ヴァスコ・ダ・ガマ16世紀ポルトガルの領土拡張

ヨーロッパでもっとも早くに絶対主義を確立したアヴィス朝は海外進出を積極的に進め、1415年にポルトガルはモロッコ北端の要衝セウタを攻略した。この事件は大航海時代の始まりのきっかけとなり、以後、エンリケ航海王子1394年 - 1460年)を中心として海外進出が本格化した。ポルトガルの探検家はモロッコ西アフリカの沿岸部を攻略しながらアフリカ大陸を西回りに南下し、1482年にはコンゴ王国に到達、1488年にはバルトロメウ・ディアスアフリカ大陸南端の喜望峰を回り込んだ。

1492年にグラナダ戦争(スペイン語版、英語版)に勝利してレコンキスタが終結したスペインが、1494年にポルトガルとトルデシリャス条約を結び、ヨーロッパ以外の世界の分割を協定した。条約に基づいてポルトガルの探検家の東進はさらに進み、1498年ヴァスコ・ダ・ガマインドに到達した。また、1500年にインドを目指したペドロ・アルヴァレス・カブラルブラジルを「発見」し、ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化が進んだ。

以後、ブラジルは1516年マデイラ諸島からサトウキビが持ち込まれたこともあり、黒人奴隷貿易によってアフリカから多くの人々がブラジルに連行され、奴隷制砂糖プランテーション農業を主産業とする植民地となった。ブラジルはポルトガルに富をもたらすと同時にブラジルそのものの従属と低開発が決定づけられ、ポルトガルにもたらされた富はイギリスやオランダなどヨーロッパの先進国に流出し、イスパノアメリカの金銀とともに資本の本源的蓄積過程の原初を担った[1]。一方、1509年ディーウ沖の海戦で勝利し、インド洋制海権を確保してマラッカホルムズとさらに東進したポルトガル人は、1541年 - 1543年には日本へもやってきた[注釈 5]。ポルトガル人の到達をきっかけに日本では南蛮貿易が始まり、織田信長などの有力大名の保護もあって南蛮文化が栄えた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:234 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef