ポルトガル
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2016年の大統領選で、社会民主党の元党首マルセロ・レベロ・デ・ソウザが52%の得票率で当選[5]
「ポルトガルの政党(英語版)」も参照
国際関係[ソースを編集]ポルトガルが外交使節を派遣している諸国の一覧図詳細は「ポルトガルの国際関係(英語版)」を参照

NATOOECDEFTAの原加盟国であり、独裁政権崩壊後の1986年にはECに加盟した。現在はEU加盟国であり、EUは現在のポルトガルにとってもっとも重要な政治的交渉主体である。ヨーロッパとの関係では伝統的にイギリスとの関係が深く、現在も1373年に締結された英葡永久同盟条約が効力を保っている。

旧植民地のブラジルとは特に関係が深く、ブラジルとは文化的、経済的、政治的な関係を強く保っている。

EUとブラジル以外ではアンゴラモザンビークなどの旧植民地諸国と関係が深く、1996年にはポルトガル語諸国共同体(CPLP)を加盟国と共同で設立した。ポルトガルは1990年代からCPLP加盟国のアンゴラやモザンビークなどのルゾフォニア諸国にポルトガル語教師の派遣を行っており、東ティモールの独立後にも同国にさまざまな援助(特にポルトガル語教師の派遣)を行っている。

2004年時点でポルトガルは国内外で国際武力紛争を抱えていないが、1801年以来隣国であるスペインが実効支配しているオリベンサの領有権を主張しているため、同国と対立している。しかし、一般的にはEU加盟後の国境開放もあって、隣国であり文化、価値観、言語の類似性を共有するスペインとの関係はおおむね良好である。同時にスペインとの間には両国を統一すべきであるとのイベリズモ思想も存在する。
日本との関係[ソースを編集]「日本とポルトガルの関係」を参照

1543年にポルトガル船が種子島に漂着、ヨーロッパで初めて日本と接触した国となった。漂着した当初から日本人を対象にした奴隷貿易が開始され、大規模に発展していった(後述[6]

1603年には、『日葡辞書』がイエズス会によって長崎で発行された[7]。4年以上の歳月をかけて編纂され、中世日本語ポルトガル語を研究するうえでの貴重な資料となっている。

ポルトガル出身のイエズス会士ジョアン・ロドリゲスは1577年に来日し、その後1620年にマカオで語学書「日本語小文典」を発行している[8]

岩倉使節団の記録である『米欧回覧実記』(1878年(明治11年)発行)には、その当時のポルトガルの地理・歴史について記述した個所がある[9]

ポルトガルの日本人奴隷貿易[ソースを編集]詳細は「ポルトガルの奴隷貿易」、「バテレン追放令」、「天正遣欧使節」、および「排外主義」を参照

16世紀のポルトガルにおいて中国人奴隷(人種的な区別の文脈であるため日本人奴隷も含む)の数は「わずかなもの」であり、東インド人、改宗イスラム教徒アフリカ人奴隷の方が圧倒的に多かった[10]ポルトガルの奴隷貿易については、歴史家の岡本良知は1555年をポルトガル商人が日本から奴隷を売買したことを直接示す最初の記述とし、これがイエズス会による抗議へと繋がり1571年のセバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許につながったとした。岡本はイエズス会はそれまで奴隷貿易を廃止するために成功しなかったが、あらゆる努力をしたためその責めを免れるとしている[11]

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ポルトガル人が日本に来て以降、16?17世紀にかけて日本人を奴隷として買い付け、ポルトガル本国を含む海外の様々な場所で売りつけ、大規模な奴隷交易へと発展した[12]龍谷大学教授であった池本幸三によると、天正10年(1582年)、ローマに派遣された天正遣欧少年使節団は、アフリカモザンビークや欧州など世界各地で多数の日本人が奴隷の境遇に置かれている事実を目撃し、衝撃を受け、豊臣秀吉の言を伝える『九州御動座記』には、「伴天連(キリシタン)どもは、諸宗を自分達のキリスト教に引き入れ、それのみならず男女数百の日本人を黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の苦しみ以上に、生きながらに皮をはぎ、あたかも畜生道の有様である」との記述があるとした[13]。同座記には、当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、黒人奴隷と同等の過酷なものであった[13]。21世紀に入っても、ポルトガル人の約31%が子供がアジア人(日本人を含む)を愛するようになると不快に感じると報告している[14]。[信頼性要検証]

龍谷大学の池本幸三が引用した『デ・サンデ天正遣欧使節記』や『九州御動座記』は歴史学の資料としては問題が指摘されている。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は日本に帰国前の少年使節と日本にいた従兄弟の対話録として著述されており、両者の対話が不可能なことから、フィクションとされている[15]。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は宣教師の視点から日本人の同国人を売るなどの道徳の退廃、それを買うポルトガル商人を批判するための対話で構成されている。デ・サンデ天正遣欧使節記では、同国民を売ろうとする日本文化宗教の道徳的退廃に対して批判が行われている[16]。またポルトガル国王による奴隷売買禁止の勅令後も、人目を忍んで奴隷の強引な売り込みが日本人の奴隷商人から行われたとしている[16]。デ・サンデ天正遣欧使節記は、日本に帰国前の千々石ミゲルと日本にいた従兄弟の対話録として著述されており[16]、物理的に接触が不可能な両者の対話を歴史的な史実と見ることはできず、フィクションとして捉えられてきた[15]

豊臣秀吉の功績を喧伝する御伽衆に所属した大村由己の執筆した『九州御動座記』は追放令発令(天正15年6月)後の天正15年7月に書かれており、キリスト教と激しく対立した仏教の元僧侶の観点からバテレン追放令を正当化するために著述されており以下のような記述がある。牛馬をかい取、生なから皮をはぎ坊主も弟子も手つから食し親子・兄弟も無礼儀上?今世より畜生道有様目前の二相聞候。

ポルトガル人が牛や馬を買い、生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの記述については、ヨーロッパ人が化物だと決め付けることは東アジアでは一般的であり[17]、実際に目撃したものを著述したとは考えられない。宣教師に対する罵詈雑言や噂、作り話をもとにした虚構であるとの指摘がなされている[18]。宣教師に対する誹謗中傷の中でも顕著なものに、人肉を食すというものがある[19]。フェルナン・ゲレイロの書いた「イエズス会年報集」には宣教師に対する執拗な嫌がらせが記録されている。司祭たちの門口に、夜間、死体を投げこみ、彼らは人肉を食うのだと無知な人たちに思いこませ、彼らを憎悪し嫌悪させようとした[20]

さらに子どもを食べるために宣教師が来航し、妖術を使うために目玉を抜き取っているとの噂が立てられていた[21]仏教説話集『沙石集』には生き肝をとする説話があり[22]仏教徒には馴染みのある説といえ、ルイス・デ・アルメイダなどによる西洋医療に対する悪口雑言ともとれるが、仏僧である大村由己が執筆した『九州御動座記』にある宣教師が牛馬を生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの噂とも共通するものがある。


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