ポルトガル
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

漂着した当初から日本人を対象にした奴隷貿易が開始され、大規模に発展していった(後述[6]

1603年には、『日葡辞書』がイエズス会によって長崎で発行された[7]。4年以上の歳月をかけて編纂され、中世日本語ポルトガル語を研究するうえでの貴重な資料となっている。

ポルトガル出身のイエズス会士ジョアン・ロドリゲスは1577年に来日し、その後1620年にマカオで語学書「日本語小文典」を発行している[8]

岩倉使節団の記録である『米欧回覧実記』(1878年(明治11年)発行)には、その当時のポルトガルの地理・歴史について記述した個所がある[9]

ポルトガルの日本人奴隷貿易詳細は「ポルトガルの奴隷貿易」、「バテレン追放令」、「天正遣欧使節」、および「排外主義」を参照

16世紀のポルトガルにおいて中国人奴隷(人種的な区別の文脈であるため日本人奴隷も含む)の数は「わずかなもの」であり、東インド人、改宗イスラム教徒アフリカ人奴隷の方が圧倒的に多かった[10]ポルトガルの奴隷貿易については、歴史家の岡本良知は1555年をポルトガル商人が日本から奴隷を売買したことを直接示す最初の記述とし、これがイエズス会による抗議へと繋がり1571年のセバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許につながったとした。岡本はイエズス会はそれまで奴隷貿易を廃止するために成功しなかったが、あらゆる努力をしたためその責めを免れるとしている[11]

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ポルトガル人が日本に来て以降、16?17世紀にかけて日本人を奴隷として買い付け、ポルトガル本国を含む海外の様々な場所で売りつけ、大規模な奴隷交易へと発展した[12]龍谷大学教授であった池本幸三によると、天正10年(1582年)、ローマに派遣された天正遣欧少年使節団は、アフリカモザンビークや欧州など世界各地で多数の日本人が奴隷の境遇に置かれている事実を目撃し、衝撃を受け、豊臣秀吉の言を伝える『九州御動座記』には、「伴天連(キリシタン)どもは、諸宗を自分達のキリスト教に引き入れ、それのみならず男女数百の日本人を黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の苦しみ以上に、生きながらに皮をはぎ、あたかも畜生道の有様である」との記述があるとした[13]。同座記には、当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、黒人奴隷と同等の過酷なものであった[13]。21世紀に入っても、ポルトガル人の約31%が子供がアジア人(日本人を含む)を愛するようになると不快に感じると報告している[14]。[信頼性要検証]

龍谷大学の池本幸三が引用した『デ・サンデ天正遣欧使節記』や『九州御動座記』は歴史学の資料としては問題が指摘されている。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は日本に帰国前の少年使節と日本にいた従兄弟の対話録として著述されており、両者の対話が不可能なことから、フィクションとされている[15]。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は宣教師の視点から日本人の同国人を売るなどの道徳の退廃、それを買うポルトガル商人を批判するための対話で構成されている。デ・サンデ天正遣欧使節記では、同国民を売ろうとする日本文化宗教の道徳的退廃に対して批判が行われている[16]。またポルトガル国王による奴隷売買禁止の勅令後も、人目を忍んで奴隷の強引な売り込みが日本人の奴隷商人から行われたとしている[16]。デ・サンデ天正遣欧使節記は、日本に帰国前の千々石ミゲルと日本にいた従兄弟の対話録として著述されており[16]、物理的に接触が不可能な両者の対話を歴史的な史実と見ることはできず、フィクションとして捉えられてきた[15]

豊臣秀吉の功績を喧伝する御伽衆に所属した大村由己の執筆した『九州御動座記』は追放令発令(天正15年6月)後の天正15年7月に書かれており、キリスト教と激しく対立した仏教の元僧侶の観点からバテレン追放令を正当化するために著述されており以下のような記述がある。牛馬をかい取、生なから皮をはぎ坊主も弟子も手つから食し親子・兄弟も無礼儀上?今世より畜生道有様目前の二相聞候。

ポルトガル人が牛や馬を買い、生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの記述については、ヨーロッパ人が化物だと決め付けることは東アジアでは一般的であり[17]、実際に目撃したものを著述したとは考えられない。宣教師に対する罵詈雑言や噂、作り話をもとにした虚構であるとの指摘がなされている[18]。宣教師に対する誹謗中傷の中でも顕著なものに、人肉を食すというものがある[19]。フェルナン・ゲレイロの書いた「イエズス会年報集」には宣教師に対する執拗な嫌がらせが記録されている。司祭たちの門口に、夜間、死体を投げこみ、彼らは人肉を食うのだと無知な人たちに思いこませ、彼らを憎悪し嫌悪させようとした[20]

さらに子どもを食べるために宣教師が来航し、妖術を使うために目玉を抜き取っているとの噂が立てられていた[21]仏教説話集『沙石集』には生き肝をとする説話があり[22]仏教徒には馴染みのある説といえ、ルイス・デ・アルメイダなどによる西洋医療に対する悪口雑言ともとれるが、仏僧である大村由己が執筆した『九州御動座記』にある宣教師が牛馬を生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの噂とも共通するものがある。

日本におけるポルトガルの奴隷貿易を問題視していた宣教師はポルトガル商人による奴隷の購入を妨げるための必要な権限を持たなかったため、永代人身売買をやめさせて年季奉公人とするように人道的な働きかけが行われた[23]。一部の宣教師は人道的観点から隷属年数を定めた許可証に署名をして、より大きな悪である期間の定めのない奴隷の購入を阻止して日本人の待遇が永代人身売買から年季奉公に改善するよう介入したとされている。マテウス・デ・クウロスなどの宣教師らによって、こうした人道的介入が誤りであったとの批判が行われ、1598年以降、ポルトガル商人の奴隷(または年季奉公人)購入への宣教師の人道的介入は禁じられた[24]

中世日本では人身永代売買が広く行われており、年季奉公が一般的になったのは江戸幕府以降だが[25]、ポルトガル人が日本で購入した奴隷の中には、数年で契約期間が終了する年季奉公人が記録されている[26]。日本人の年季奉公制度(期限奴隷制度)では、マカオへの渡航のみを希望したり、ポルトガル人に雇われることができず、自らを売った者などがいたという[27]。マカオに上陸するなり、明の管轄する領土に移動して労働契約を一方的に破棄する日本人の年季奉公人が続出した[28]。この結果、多くのポルトガル人は以前と同じ量の日本人奴隷を買わなくなったという[27]。自らの意志で奴隷になろうとした者の背景としては、軍資金を求めて領主が要求した増税は、領民の貧困化を招き、多くの日本人が奴隷制を生き残るための代替戦略として捉えていたことがある[29]。中世の日本社会では、百姓は納税が間に合わない場合に備えて、自分や他人を保証人として差し出すことができたという。税金を払わない場合、これらの保証は売却される可能性があり、農民奴隷の区別をいっそう困難にしていた[30]

龍谷大学教授であった池本幸三の主張によると日本人の奴隷は黒人奴隷との境遇と同じであったしているが、黒人奴隷の生活は、多くの点で白人の下層階級の生活と似ていた。白人と同じ服装、食事、仕事をし、同じ言葉を話し始め、ファーストネームで呼び合うなど、ほとんどの奴隷は自分たちの状況に納得していたようである。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:234 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef