1492年にグラナダ戦争(スペイン語版、英語版)に勝利してレコンキスタが終結したスペインが、1494年にポルトガルとトルデシリャス条約を結び、ヨーロッパ以外の世界の分割を協定した。条約に基づいてポルトガルの探検家の東進はさらに進み、1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達した。また、1500年にインドを目指したペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見」し、ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化が進んだ。
以後、ブラジルは1516年にマデイラ諸島からサトウキビが持ち込まれたこともあり、黒人奴隷貿易によってアフリカから多くの人々がブラジルに連行され、奴隷制砂糖プランテーション農業を主産業とする植民地となった。ブラジルはポルトガルに富をもたらすと同時にブラジルそのものの従属と低開発が決定づけられ、ポルトガルにもたらされた富はイギリスやオランダなどヨーロッパの先進国に流出し、イスパノアメリカの金銀とともに資本の本源的蓄積過程の原初を担った[1]。一方、1509年のディーウ沖の海戦で勝利し、インド洋の制海権を確保してマラッカ、ホルムズとさらに東進したポルトガル人は、1541年 - 1543年には日本へもやってきた[注釈 5]。ポルトガル人の到達をきっかけに日本では南蛮貿易が始まり、織田信長などの有力大名の保護もあって南蛮文化が栄えた。さらに、1557年には明からマカオの居留権を得た。この時にポルトガル商人は日本人や中国人らを奴隷として買い付け、奴隷貿易を行い、16?17世紀にかけて続いた(後述)。ジョアン4世の即位(ポルトガルの独立回復)
こうしてポルトガルは全世界に広大な植民地を獲得したが、国力の限界を越えた拡張とインド洋の香料貿易の衰退によって16世紀後半から徐々に衰退を始め、さらにモロッコの内紛に乗じて当地の征服を目指したセバスティアン1世が1578年にアルカセル・キビールの戦いで戦死したことにより、決定的な危機を迎えた。アルカセル・キビールの戦いの余波は、最終的に1580年のアヴィス朝断絶による、ポルトガルのスペイン・ハプスブルク朝併合に帰結した(スペイン帝国)。
スペイン併合後もポルトガルは形式上同君連合として、それまでの王国機構が存置されたため当初は不満も少なかったが、次第に抑圧に転じたスペインへの反感が強まり、1640年のカタルーニャの反乱(収穫人戦争)をきっかけとした[2]ポルトガル王政復古戦争によりスペインから独立し、ブラガンサ朝が成立した。一方、この時期に植民地では、スペイン併合中の1624年にネーデルラント連邦共和国のオランダ西インド会社がブラジルに侵入し、サルヴァドール・ダ・バイーアを占領した。ブラジル北東部にオランダがオランダ領ブラジル(英語版)を成立(オランダ・ポルトガル戦争(英語版))させたことにより、ブラガンサ朝の独立後の1646年に、これを危機と感じた王家の図らいによってブラジルが公国に昇格し、以降ポルトガル王太子はブラジル公を名乗るようになった。
1654年にオランダ人はブラジルから撤退し、1661年のハーグ講和条約で、賠償金と引き換えにブラジルとポルトガル領アンゴラ(現・アンゴラ)の領有権を認められた。アフリカでは、アンゴラの支配を強化したポルトガルは1665年にコンゴ王国を事実上滅ぼした。また、この時期にモザンビークの支配も強化されたが、18世紀までにそれ以外の東アフリカ地域からはオマーン=ザンジバルによって駆逐された。南アメリカではトルデシリャス条約で定められた範囲を越えてバンダ・オリエンタル(現在のウルグアイ)にコロニア・ド・サクラメントを建設し、以降南アメリカでスペインとの戦争が続いた。
1696年にはブラジルでパルマーレスのズンビを破り、ブラジル最大の逃亡奴隷国家キロンボ・ドス・パルマーレス(ポルトガル語版)を滅ぼしたことにより支配を安定させ、1750年にはスペイン帝国とマドリード条約(英語版)を結び、バンダ・オリエンタルと引き換えに、アマゾン川流域の広大な領有権を認められ、現在のブラジルに繋がる国境線の前進を果たした。
広大な植民地を獲得したブラガンサ朝は、17世紀から18世紀にかけて植民地、特にブラジル経営を進めることによって繁栄を保とうとし、ヨーロッパの戦乱には中立を保ったが、産業基盤が脆弱だったポルトガルは1703年にイギリスと締結したメシュエン条約によって、同国との間に経済的な従属関係が成立した。1696年にブラジル南東部のミナスで金が発見され、ゴールドラッシュが発生したため、ポルトガルには多量の金が流入したが、そうして流入した金の多くはイギリスに流出し、国内では奢侈や建築に使用され、産業を産み出さないまま貴族と聖職者が権勢を奮う絶対主義が続き、ピレネー山脈の北部との社会、経済的な隔絶は大きなものとなった。
1755年のリスボン大地震のあと、ジョゼ1世のもとで権力を握ったセバスティアン・デ・カルヴァーリョ(のちのポンバル侯爵)はポルトガルにおける啓蒙専制君主の役割を果たし、工業化や王権の拡大、植民地経営の徹底、イエズス会の追放などを行ったが、ジョゼ1世の死後には権力を失った。
1777年に即位したマリア1世の時代にもポンバル侯が進めた政策は続いたものの、1789年のフランス革命によってフランス革命戦争/ナポレオン戦争が勃発すると、国内が親英派と親仏派の対立で揺れる中で、1807年11月にジュノー将軍がリスボンに侵攻し、王室はブラジルに逃れた。