ポルトガル共産党
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民族自決の権利は何人も有するものとして、アンゴラアンゴラ民族解放戦線 (MPLA) やモザンビークモザンビーク解放戦線 (FRELIMO) 、そしてギニアビサウギニア・カーボベルデ独立アフリカ党 (PAIGC) に対する支援を打ち出した。1961年に書記長に選ばれたアルヴァロ・クニャルオイルパステル

1960年1月、10名の党員がペニシェの厳重警備刑務所から脱獄[12]。このうちクニャルは翌年書記長に選出され、ハイメ・セラは武装勢力 [13]を組織することになる。

1961年にアンゴラで、次いで翌年にはギニアビサウ、1964年にはモザンビークにて独立戦争が勃発(ポルトガル植民地戦争)。17年間続いたこの戦争で、数千名の国民が徴兵忌避策としてフランスドイツルクセンブルク、そしてスイス逃亡する中、共産党は反戦を唱え反植民地闘争を展開する。国内の政情不安は日増しに高まり、サラザール政権も衰微の一歩を辿る[14]

また、1962年には学園紛争も発生し、学生の民主化要求の高まりに危機感を覚えたサラザール政権は、国内の主要学生組織を非合法化した。学生組織のメンバーのほとんどは共産党員で、停学処分を余儀なくされた[15]。学生は共産党の支援を受け、同年3月24日にはリスボンの街頭で大規模なデモ活動を実施。デモは警官により激しい弾圧を受けた上、参加者のうち数百名が負傷した[16]ものの、その直後には政権に対するストライキを敢行した。

1965年の第6回党大会では、クニャル書記長が「勝利への道- 民族主義及び民主主義革命における党の役割-」と題する報告書を公表。地下活動を行う党員に広く出回ったこの報告書は、「経済における独占の終結」や「文化や教育へのアクセスの民主化」など8項目の政治的目標を掲げたもので、以後、民主化運動に大きな影響を与える文書となる。
カーネーション革命カーネーション革命を祝う壁画

カーネーション革命も参照のこと

革命直後、基本的権利が国内に再びもたらされる。4月27日政治犯が釈放され、同月30日にはクニャルがリスボンに戻り数千人の歓待を受ける。メーデーが48年振りに復活、リスボンのFNATスタジアム(現・5月1日スタジアム)には500万人の国民が参集し、クニャルと社会党マリオ・ソアレスが演説を行った[17]。また5月17日、党機関紙である「前進!」が創刊以来初めて合法化された。

革命後数ヶ月は共産党の後押しを受けて、国内で急進的な改革が遂行された。共産党の全面的支援の下、ギニアビサウ、アンゴラ、モザンビークそしてカーボベルデといった植民地が年内に独立国となった。こうした中行われた第7回党大会では、1000名以上の代議員や数百名の国民、更には外国からも賓客を招き、進行中の革命について活発な意見交換が行われた[18]1975年 1月12日、遂に結党以来初めて合法政党となった。

革命はまだ続いた。ヴァスコ・ゴンサルヴェスの主導で銀行、交通機関、製鉄工場、鉱山、電話会社など主要産業を順次国有化したほか、党の要望により一部地域で土地改革を断行し、農業部門の集権化も図られた[19]。一連の過程において党は綱領に従って主導権を握り、数千にのぼる小作人協同組合に編入した。小作人を編入した地域はかつて党が農民運動を主導していたことから、現在でも共産党が強い地域としても知られる。とりわけベジャエボラ、そしてセトゥーバルなど南部の地域で総得票数の半分以上を獲得している。革命から1年後、初の民主的な議会選挙が行われ、12.5%の得票率を得て30名が当選を果たした。選挙後に召集された議会では、独裁政権下で施行された1933年憲法が改正され、「社会主義」や「階級無き社会」といった文言を盛り込んだ憲法が1党(右派政党の民主社会中央党(CDS、現・民主社会センター・人民党)のみの反対により可決された。

新憲法制定後の1976年、2度目の議会選挙が行われた結果、14.56%の得票率を獲得し40議席へと躍進した。また、同年11月11日から4日間の日程で第8回党大会を開催。党大会では社会主義の探求に焦点が当てられ、反動勢力の台頭を許さない運動を今後も継続する必要性を表明した。1979年の第9回党大会では、革命以後の国家体制や右派の政治動向、産業国有化についての分析を行った。同年12月の選挙に際してはポルトガル民主運動(MDP)と政党連合「統一人民同盟」(APU)を結成し、18.96%の得票率を獲得し47名が当選した。なお、この選挙ではフランシスコ・サ・カルネイロ率いる中道・右派連合が勝利し、党が労働者階級の利益にもとると見なした政策に着手している。続く翌年の選挙で41議席に後退したにもかかわらず、地方選挙では多くの自治体で与党となるなど勝利を収めた。

1983年の議会選挙では統一人民同盟が18.20%の得票率で44議席を得た。同年には第10回党大会を開催し、右派の台頭を厳しく批判した。1986年には、大統領選挙の第2回投票でソアレスがド・アマラルのほか、党擁立候補のサルガド・ゼーニャに圧倒的大差をつけたことを受け、第11回党大会を開催。ソアレスを支持するか否かについて議論を行った結果支持を決定し、ソアレスが僅差で当選した。内閣が総辞職した1987年には、同年の議会選挙に向け、環境政党の「緑の党」(PEV)などと共に政党連合「統一民主同盟」 (CDU) を結成したが、得票率は12.18%、31議席と大敗を喫した。


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